見出し画像

わたしはなぜ 藤井 武 を取り上げるのか?

藤井武の信仰の真髄


それは、彼が詠んだ、

打ちたまえ、み存分に打ちて据えたまえ、
 鞭の下よりただわれすがる

という信仰が、藤井武の信仰の真髄だとわたしが捉えているからである。


 これは、イエスがゴルゴタの十字架の上から「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!)」(『マタイ』27の46,、『マルコ』15の34)と神に向かって叫ばれた、あの「キリストの信仰」そのものだからである。

 神に捨てられた「無」のどん底において、なおも神により頼む信仰が、イエス・キリストの信仰である。これをもたらしたものは自力の信仰ではなく、イエス・キリストの信仰である。この信仰は、イエス・キリストから来る信仰である。その信仰は、藤井武が自分で持つことはできない。

 この信仰は親鸞にもない。阿弥陀仏信仰にこの次元はない。親鸞は、法然からも阿弥陀仏からも捨てられてはいない。釈迦牟尼も阿弥陀仏に捨てられてはいない。


 しかし、イエス・キリストは十字架上において父なる神に捨てられ、藤井武も絶対的結婚を信仰したなかで妻を失っていく。向こう側から与えられた恩恵から捨てられ、他力からも捨てられていくのである。絶対無に立たされながら、そこから神を発見して復活していく。これはイエス・キリストの信仰である。

 この信仰が、絶対的結婚を発見しながらその人生の絶頂で妻を失うという絶対的無のどん底で、藤井武に乗り移ってくるのである。だから、これは藤井武の信仰ではない。イエス・キリストの信仰である。藤井武の信仰ならば自力の信仰だが、イエス・キリストから来る信仰であれば、それは他力の信仰である。しかもそれは、無のどん底において来たった、他力信仰を超えた絶対他力の信仰である。それゆえ、これがアダムの「創造以前の絶対無に陥った転落」からの、第二の創造の始まりになるのである。


 「苦」からの救済は仏陀や親鸞にあるが、絶対無からの新たな世界創造はそこにはない。「神に捨てられた絶対無の人間・アダム」からの新たな次元の創造は、イエス・キリストとその道を世界にもたらした藤井武から始まっていくのである。それを矢内原忠雄は、「わたしは世界に怖いものは何もない。ただ、藤井武だけは怖い」と述懐したのだとわたしは考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?