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間身体性としての「他者」・・・「わたし」という現象をめぐる考察ノート⑥

0.はじめに

 前回の投稿では、家族・学校・キャリアコンサルティングのケースを検討しつつ、ナラティブセルフの生成と流動的な発達の条件を見てきた。そこでは、コーラ的な間身体性とともに、他者性について触れることとなった。ここでは、この「他者性」についての検討から始めていきたい。

1.レヴィナス的他者

 本論のなかで「他者」という言葉を使用するとき、実のところ筆者の頭のなかには、常にエマニュエル・レヴィナスのことがあった。レヴィナスにとっての「他者」とは「わたし」にとって「決してわかり得ぬもの」である。それは、言葉を尽くしても決して到達することのできない超越性そのものなのだ。

 ユダヤ教徒であるレヴィナスにとって、「他者」とは「神」なのだと理解すれば恐らくわかりやすい。

「他者との関係において、他者は絶対的に他なるものとして現れる。他者の他性は、私の思考が所有し包含できるような他性ではない。他者は、『無限の観念』として、私の思考の容量を超えて現れる」

エマニュエル・レヴィナス「存在の彼方へ」

 それゆえに「他者」と「わたし」の関係は、常に非対称性を持つ。レヴィナスは「他者は私が理解し得る対象ではなく、私に命令する高みから到来する」とさえいうのだ。当然ながら、そこに相互性はない。「それ」は常に一方通行のまま「わたし」にむかって到来する。
 そこにあるのは無限の責任である。それは他者からの見返りを期待せず、計算も要求もしない。絶対的な贈与の状態にある非互恵的な関係ー責任なのだ。

 そしてこのような「他者」は、「顔」を伴って私たちに迫ってくる。

「顔は、私の力能を超えて、私の概念化する力を超えて到来する。この意味で顔は、無限なものの痕跡である」

エマニュエル・レヴィナス「全体性と無限」

 ただしこの「顔」は、わたしたちが日常的に出会い、言葉を交わす他の身体の顔を通して立ち現れてくる。他の身体の顔を見るとき、私たちはその人の痛み、苦しみ、喜び、悲しみなどを直接的に感じ取ることができる。それぞれの顔は言葉以前に、すなわち前反省的な次元で、私に「倫理的な責任」を突きつけてくるのだ。
 例えば、苦しんでいる人の顔を見れば、思わず助けたいと思うひとがほとんどだろう。喜んでいる人の顔を見れば、一緒に喜びたいと感じるのと同様に。つまり、顔は私の利己的な欲求を超えて、他者への配慮を促すのだ。他者の顔は、私に「汝殺すなかれ」という倫理的命法を与える。つまり、他者を傷つけるな、他者を大切にせよ、と。

 このような「顔」への直面に際して相手の苦しみや喜びを感受し、共感し、相手のために行動したいという気持ち、そのような身体の性質のことを、レヴィナスは「可傷性」と呼んだ。これは文字通りに、わたしたちが傷つきやすく脆い存在であることを意味しているが、同時に(そのことを契機として)わたしたちが他者に対して開かれた存在であることを示す。
 わたしたちは、わたしたちが傷つきやすいからこそ、他者のそのような気持ちを感受できるのだ。そして他者を苦しみから助けたいと思うからこそ、他者への呼びかけに応答するのだ。それは身体の存在論的な開放性を意味し、他者の呼びかけに対して根本的に応答可能な状態にあることを指す。この点で、可傷性は主体が自己完結的な存在ではなく、常に他者との関係性の中に置かれていることを示している。レヴィナスはそこにひとの倫理や責任の源泉を見た。

 レヴィナスにとって、「主体性」とは「他者」への「応答責任」なのである。レヴィナスいわく「主体は他者によって人質に取られている」。「他者」は身体の発生以前から存在し、身体を触発し、無限の責任を与えられている。それは身体にとって非自発的でありながら、逃れることのできない関係なのだ。
 しかもそれは同時に、決して完全には果たすことのできない責任であるという。身体にとって、「他者」からの一方的な呼びかけを完全に把握することはできない。把握できないからこそ、慮り、より良い応答を模索する他ない。レヴィナスは、身体のこのような態度を「真摯さ」と呼ぶ。

 わたしたちは、このような他者からの呼びかけに対して応えなければならないという責任を持っている。これが応答責任だ。しかもそれは「完全に果たすことのできない責任」であるため、常に「まだ十分ではない」状態が続き、決して終わることはない。だからこそ「もっとできたはずだ」という感覚が残り続ける。「顔」に接し、可傷性ゆえの受容と共感を基として慮り、「誰かのために」行動する。その応答責任において無限に。それがレヴィナス的主体なのだろう。

 そしてここでの他者は、やはり絶対的な「他者」なのだ。この絶対的な「他者」のあらわれが「顔」であるということは示唆的である。「顔」は具体的な次元では、具体的な他の身体との出会いにおいて経験され、実際の人間の顔として現れるのだ。
 つまり「わたし」は全ての人に対して、無限の応答責任を与えられている。「他者」からの見返りを期待せず、計算も要求もすることなく。レヴィナスにおいて、応答責任は常に非対称的であり非互恵的な関係なのだ。

2.「他者」の「痕跡」

 しかし「わたし」が「顔」に直面するとき、相手もまた「顔」に直面している。つまりそれぞれの身体の非対称的な責任が相互作用において交差することで、結果として相互的な関係が生起すると考えられないか。予測・計算が可能な相互性ではなく、各々の一方向的な無限の責任の交差として。

 身体は「つねにすでに」他者性を帯びている。相互作用は、互いの可傷性あるいは応答責任が出会う場なのだ。レヴィナスにしたがっていえば、相互作用において身体は互いに相互的な関係を前提とはしない。ただし逆説的に、互いに計算も要求もなく応答責任を負いあうことによって、私たちの相互作用は互いの尊重と共感をたたえた…わたしたちが日常的に経験するような…性質を持ち得るのではないか。
 触れることと触れられることの両義性。身体のこのような様態は、レヴィナス的主体の出会いの場においても、当然に見られる。レヴィナスのいう身体に蓄積された絶対的な他者の「痕跡」。身体と身体(あるいは「他なるもの」)との出会いは、そのような「痕跡」と「痕跡」が出会う場に他ならない。

 それは痕跡なのだ。レヴィナスは著書「存在の彼方へ」において、「近さ」についての議論を行っている。「他者」との距離は決して遠すぎることもなく、また近すぎることもない。測定可能な距離を超えた関係性なのだ。それは皮膚の接触のような直接的接触であり、したがって身体を通じた他者への暴露である。「近さ」とは可傷性と本質的に結びついている。可傷性とは「近さ」の感受性であり、「他者」への曝露そのものなのだ。
 近すぎず遠すぎない距離での直接的接触。そのような位置に存在することができるものがレヴィナスのいう「他者」だとするならば、やはりそれは「神」としか言いようのないものなのではないか?

 それゆえに、「顔」は「他者」の「痕跡」としてあらわれる。
 それゆえに、相互作用は「顔」を通して互いに無限の応答責任を果たす場になる。

 さらに続けよう。他者の「痕跡」は、他の身体にのみ存在するのではない。「近さ」の直接的接触という性質によって、「痕跡」は「わたし」にも存在する。感受性の極限としての可傷性。「他者」への無限の責任に対する感受性。そしてこれこそが「主体」を「主体」たらしめるものだ。レヴィナスにおいては、「主体性」は「顔」と接することにより生まれる。「主体の主体性、それは可傷性であり、触発にさらされることであり、感受性であり、いかなる受動性よりも受動的な受動性である」。
 しかしこの受動性は、その応答責任…「誰かのために」という感受性において…身体の能動的な運動を可能にする。「他者」に対して開かれ、応答する能力は、「主体」の本質的な特徴なのだ。この意味で、可傷性は「主体」の能動的な力でもある。「主体は他者によって人質に取られている」。このような「主体」性、すなわち「他者」への応答責任と可傷性によってもたらされた「主体」性を、レヴィナスは「倫理」的な構造をもつものとして捉えた。

 レヴィナスが「倫理」を強調するのは、これが「他者」の「痕跡」だからであろう。しかしレヴィナスのいう「倫理」とは、規範や原則の体系ではなく、相互性や互恵性に基づかない。言語以前の前反省性を持つ、善悪の判断に先立つ根源的な関係性なのだ。そしてこれは、「つねにすでに」自己の存在に先立って課される無限の応答責任の次元なのだ。
 この「倫理」は、一般的な用語としてイメージされる倫理とは、全く別の様態であろう。実際にレヴィナスは個別的な倫理規範を示すことはなかったという(しいて言えば、全体性…ファシズムの否定くらいではないか)。「倫理」は、社会慣習を可能にする基盤であり、身体間の関係性に対する一つの指向性なのだろう。

 さらにレヴィナスは、「倫理」を「間主観性の根源的な次元」とする。
 身体は前反省的な次元で「他者」との邂逅を渇望する。「他者」は決して届き得ない次元に超越し、同時に計測できない「近さ」にいるのだ。到達することも諦めることもできない距離。
 「顔」との出会いにおいても渇望は続く。そこには「痕跡」としての「他者」はいる。可傷性に基づく感受性、身体性そのものである渇望は、その「近さ」と超越性を感受し、そのことがまた渇望を産む。そしてその渇望こそが無限の応答責任として、相互作用を可能なものとする。
 つまり「倫理」が間身体性の根源的な次元であるということは、「他者」はそれぞれの身体に「痕跡」を残しているというばかりではなく、間身体性のなかにも同様に「痕跡」を残しているということに他ならない。

 間身体性はメルロ=ポンティが提唱した概念であり、身体間の前反省的な相互作用と共鳴を指す。一方、レヴィナスの他者性は、完全な到達や把握を拒む絶対的な超越性を意味する。一見すると、これらは全く逆の概念であるようにさえ見えるかも知れない。

 しかしレヴィナスのいうとおり「倫理」とは「間主観性の根源」なのだ。「他者」の超越性を紐解いたことで、到達や把握のできない「他者」の「近さ」、可傷性を通じた他の身体への開かれ、さらに非対称的で予測不可能な応答責任が、結果として相互的な関係を生成することが示唆された。
 それは「痕跡」として「つねにすでに」身体に先立っていることによる。「近さ」と可傷性は他の身体に対する受容の可能性であり、したがって身体の共鳴と不協和の可能性である。そしてこの「痕跡」が生み出す無限の応答責任は、前反省的な次元で動作し、身体から身体へ連鎖していく。間身体的な次元で「痕跡」が蓄積されていくのだ。

 「他者」が身体に先立つ根源性を持つというのならば、そして身体に「痕跡」を残すというのであれば、応答責任の連鎖において「痕跡」は間身体性に蓄積し、共鳴と不協和…互いに分かり合えるという希望と、決して分かり合えないという諦念…のあいだに超越し、間身体性そのものの基盤となる。

 「他者」はこのように「目の前の誰か」に、「わたし」に、そして間身体性に宿る。あるいはこれらの根源として、それぞれの現象を可能にする。
 レヴィナスのいう「他者」の根源性を、もしわたしたちも認めるとするのであれば、身体図式やハビトゥスもまた、この根源性の上に構造化されるということになる。これは一体どういうことなのか。続けて、時間性の視点から検討していきたい。

3.隔時性と予持

 レヴィナスは、彼の独自の時間概念を「隔時性」という概念で語る。
 隔時性とは、「同じものの中で生起する時間ではなく、絶えず自己同一性を中断する時間」なのだ。それは単に時間の中で生じる出来事の連続ではなく、時間を断ち切る非連続性、非同時性であることを意味している。より具体的に言えば、隔時性とは、「私が責任を負う以前に、つねにすでに私に課されている責任の時間」なのだ。

 さらに「隔時性とは、異他がその同一性へと復帰することのできない仕方での、異他の呼びかけ、私への異他の到来以外の何ものでもない」。つまり、「わたし」の時間の地平に回収されえない他者の到来、「わたし」の連続性を突き崩す他者の呼びかけの時間こそが隔時性なのであろう。それは身体の「生きられた時間」とは決定的に異なっている。「同じものの時間、すなわち、意識がその時間を構成する時間とは、まったく異なる」のだ。

 自己と他者の非対称的な関係、自己に先行し自己を超越する他者の呼びかけ。レヴィナスは、ここにもまた「他者」を見出した。

 そしてその呼びかけは、「つねにすでに」行われたものである。それは「私の意識が構成できない過去、現在の保持できない過去」なのだ。その観点にしたがうのならば、「主体」は決して現在に定位できない。他者からの呼びかけによって常に「遅れて」形成されることになる。
 「痕跡」という概念も、このことを暗示するものであった。それは過ぎ去った跡なのだ。現在の時間構造の中に回収されえない表象不可能な過去であり、したがって現在の時間構造の中には回収されえない絶対的な過去の「痕跡」なのだ。つまり「痕跡」は隔時性において、意味は時間的ずれにおいて、理解は遅延において、関係は非同期性において、それぞれにその本質を現すのだ。

 「倫理」とは、社会慣習を可能にする基盤であり、身体間の関係性に対する一つの指向性であった。そして「他者」の「痕跡」を辿る「わたし」の、「他者」への渇望であった。それが応答責任として「主体性」あるいは「自由」の可能性であると考えるとき、「つねにすでに」到来している過去からの把持による規定性という様態は、ブルデューのハビトゥス概念を想起させるところがないだろうか。

 もちろんハビトゥスは「構造化された構造」として、社会的に構成されたものである。しかしここまで見てきたレヴィナスの「倫理」は、超越的な「他者」から演繹的に構成されたものではあろうが、「顔」に接したとき前反省的な次元で、可傷性により感受し、応答責任として具体的な場面で能動的に(あるいは自動的に)身体が行動することを可能にするものであった。

 「顔」の具体性。「他者」の「顔」は常に他の身体の顔を通して、具体的な相互作用の場面で現前する。ひととの出会いや関係性をなくして、「わたし」は「他者」に応答し得ない。つまり「わたし」は、決してひとと出会うことなく成立しない。そこに現れる可傷性と応答責任。それは「痕跡」として身体に宿り、「倫理」として実践感覚となる。この視点において構造とは、非対称性を保ったまま連鎖した応答責任なのだろう。これらとハビトゥスの違いは、論考に際しての視点の問題にすぎない。

 加えて指摘すれば、世界への知覚すなわち「意味」が「あらかじめ存在する主体」が付与するものではなく、身体の外からもたらされた「何か」である点も相似している。しかもその「意味」は、実践に即して同時に立ち現れるものではなく、把持として事後的にのみ認識可能である。まさしく「構造化された構造」としてのハビトゥス=プラティーク論ではないか。
 いったん、ニック・クロスリーによるブルデュー批判に立ち戻ろう。

「ハビトゥスは実践の中で形成され、維持される。この実践は本質的に相互行為的である。しかし、ブルデューは場の構造的効果を強調するあまり、具体的な相互行為の動態を十分に分析していない」

 しかし応答責任が、間身体的な場において相互的に作用するとすれば、非対称的な超越性がそこに参与するすべての身体に知覚されることになる。そこでの「他者」への応答は、別の身体にとっての新たな「他者」からの要請となるだろう。そしてそれらは可傷性ゆえに「他者」に対して…したがって「痕跡」としての他者の身体に対して…開かれており、受容と共感をもって「誰かのために行動する」。わたしたちは、ここに身体の能動性、可塑性のひとつの端緒をつかむことができるのではないだろうか。

 隔時性とは、生きられた時間から超越して、「つねにすでに」存在している「他者」としての時間であり、「私の意識が構成できない過去、現在の保持できない過去」であった。
 しかし相互作用においては、そのような隔時性を「痕跡」として残す身体が互いに出会うことになる。出会った身体がともに隔時性に規定されていたとしても、それはその超越性ゆえに互いに把握し得ない。

 メルロ=ポンティがいうように、生きられた身体は「現在」という時間に強く定位する。現在という位置において、過去からの把持を参照し、予持する未来を志向して運動する。
 レヴィナスにおいては、予持される未来もまた「他者」である。それは身体にとって認識不可能なものであり、超越性をもって身体に到来する。しかしそれゆえに、このときの予持は身体の可傷性と応答責任によって開かれたものとなり、そのことによってはじめて身体は現在に定位することができるのだ。

 生きられた時間は、相互作用において応答責任が各身体相互に現れることにより、それぞれに隔時性が持ちよられることで成立する。応答責任は「つねにすでに」遅れてやってくる。そして予持は、超越性に対するある種の謙虚さとしてあらわれる。その意味で、レヴィナスにおいて「現在」という時間は存在しない。

 しかし応答責任は、相互作用において連鎖する。そこでは隔時性ゆえのずれ、非同期性が常に存在するだろう。しかし、先に見てきたとおり、そのとき互いに開かれた状態であることは、能動的・創造的な相互作用を可能とする。
 このときそれぞれの身体の固有の時間は、リズムとして前反省的な次元で交差する。互いの把持と予持において織りなされる応答責任が、(開放的で生成的な)共鳴と不協和の網目として現前する。それは各身体の過去と未来が同時に立ち現れる場であり、したがって(ハビトゥスのレベルでは)記憶と予期が交差する場となる。それは、メルロ=ポンティのいうとおり決して線形な時間ではなく、身体相互の関係に由来する多層性を帯びた時間となるだろう。

 そして応答が堆積し経験が地層化される。互いの応答責任の応酬が意味として身体化される。身体図式としてのハビトゥスは、このように生成され、構造化される。それは身体の運動に際しては前反省的であっても、あくまで意味なのだ。知覚=評価=行動の一体図式としてのハビトゥス。知覚に意味を持たせ、その意味に従って身体の運動を可能とするもの。
 その端緒を(結果として)相互的に展開される応答責任に見出すことができるとすれば、それは決して決定論的に構造化された性質のみ持つものではないことが理解されよう。それは実際に私たちが経験しているように、文化的・経済的な基盤に構造化されつつも、各身体の体験に応じて生成的に形成され、移調や変容の可能性を常に孕み続けたものとなる。
 それは、それ自体として意味の構造でありながら、同時に生きられた身体にとっての意味を生成し、応答責任によって意味の共有を可能とする「構造化する構造」となる。それこそが生きられた時間であり、生きられた身体なのだ。

4.おわりに

 レヴィナスにとって「不可能」であった「現在」は、このようにして間身体的に現前し、身体に体験される。間身体性はそれ自体「他者」なのだ。そしてその他者性ゆえに、例えばハビトゥスという形を取り、身体間の相互作用を可能にする。
 あらためて相互作用とは何なのか。間身体性の特性は単に「他者」であることのみなのか。項をあらためて、引き続きそれを検討していくこととしたい。

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