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石川啄木がアイコンであることについて

なぜアイコンが石川啄木なのかよく聞かれるから、書く。

石川啄木とは、中学3年の東北修学旅行の事前研究のテーマとして選んでから、6年くらいの付き合いである。なぜ啄木にしたかは覚えていないが、中1の林間学校みたいなやつの事前研究で北原白秋を選んだので、東北出身のゲスくて自堕落な文学者について調べようかなあと国語便覧を眺めていたら発見した、みたいなところだったと思う。

石川啄木は、「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし) 楽にならざりぢっと手を見る」や「ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく」のような、清貧そうな歌で有名な歌人である。しかし、そのイメージとは裏腹に実際はめちゃくちゃ自堕落で、友達に借金しまくってその金で風俗に行き、金を使い果たしてまた借金して、また踏み倒す、みたいな生活をしていたらしい。地元の幼馴染・節子と結婚するも、自分の結婚式をさぼったり、夜は家に帰らなかったり、職を転々としてまともに稼いで来なかったりと、超クソ夫だったそうだ。結核で他界。享年26。

中3の私は石川啄木やべえやつだな、ということでレポートを書いたわけだが、それだけの関係性で大学3年生にもなってSNSのアイコンに彼の顔を使い、コロナが流行ってるからといってマスクまでつけてあげているわけで、そこまで入れ込んでいる理由、というか、惹かれる理由と言うのはどのあたりにあるのだろう。

いろいろな研究者が指摘していることではあるが、石川啄木的短歌の一番の「価値」というのは、普通の一般人が常日頃思っている、朝起きて眠いなーとか、会社行きたくねーとか、上司ムカつくーとか、家帰りてー、みたいな「どうでもいいこと」を短歌に落とし込んだことだと思う。

「願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」(西行)的な幻想的な境地とか、あなたが死ぬなら私も死ぬわみたいな絶唱って、文学的にはめちゃくちゃ美しくて読む人の感動をそそるわけだけれど、普通に生きていて感じる感情の発露というより、「芸術」にするためにきれいに成型した感情の表現、のような気がする。そして、こういう気取ったところが短歌の敬遠される原因なんじゃないかなーと勝手に思っている。

では、石川啄木はどんな短歌を作ったのか。


「やはらかに積れる雪に 熱てる頬を埋むるごとき 恋してみたし」

「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと」

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て 妻としたしむ」


わからんでもない、というか、結構わかる、と私は思う。死んでもいいくらいレベルの恋愛とかよくわかんないけど、積雪にダイブするのは気持ち良さそうだしそんな恋愛ならしてみたいかもしれない。周りの人に成績とか何かで負けて馬鹿にされて死ぬほど悔しい時は相手のことを死んでしまえと思うかもしれない。嫌なことがあって自己肯定感が下がったら私のことを好きな誰かに構ってほしい。そんな我儘な気持ちを、啄木だけじゃなくてみんな多かれ少なかれ抱えていると思う。

しかし、こういう普遍的かつ下衆な気持ちは芸術の描く対象としては不適と扱われ、従来の詩歌にはほとんど残されなかった。啄木は、僧に性欲はないの?と問いかけた与謝野晶子と同時代の人であるが、彼女とともに「普通のこと(というか普通の人は口に出さない低俗なこと)を短歌にする」ことの草分けだと思う。そしてこの流れが俵万智に至るまで続いていく。(多分)

それなのに教科書は「老いた母を背負ったら軽くて泣いた」とか「柳を見て地元を思い出すと泣いちゃうよ」みたいな歌ばかり載せて、清貧で可哀想な薄幸な文学者イメージを植え付けてくるばかりで、個人的にはかなり不満である。そんなの宮沢賢治にやらせとけばいいじゃん。あめゆじゅとてちてけんじゃで十分。

小説や川柳が庶民に愛好された一方、「短歌」には貴族の遊びみたいな贅沢品というイメージが付きまとってきた。これを思いっきり庶民の生活レベルに引き下げたことに啄木の功績があると説明したが、最後に、なぜこのようなことが彼に可能だったのか、ということについて私見を述べる。

私の勝手な解釈だが、啄木は短歌を馬鹿にしていたのだと思う。彼はもともと小説家志望で、短歌のことは「悲しいおもちゃ」(これが歌集『悲しき玩具』の名前の由来となる)と見なしていたそうだ。つまり、「自分は小説家になりたいのに短歌しか評価されない、こんなくだらない金持ちのお遊びみたいな短歌なんて小説の下の下の下なのに」という感情が死ぬまで彼には付きまとっていたのだと思われる。だからこそ、美辞麗句を尽くして美しい世界を表現する伝統的短歌を土足で踏みにじるような、日々の生活の愚痴だったり不満だったり、そこら辺に転がっているような当たり前の感情を歌にしたのだ、と私は考えている。

つまり、啄木は小説に執着して短歌を「おもちゃ」扱いしたからこそ、市井に根差した短歌、という新しいジャンルの草分けになったのだ、ということである。

私はこれを美談とは思わない。せっかくなら小説の1本2本売れて、俺は小説家になったなと思って死んでほしかったと思う。それでも、彼が優れた歌人であること、日本の文学史に大きな影響を与えたことは紛れもない事実である。人生万事塞翁が馬、と言ってしまえば陳腐だけれど、自分の適性はどこにあるかわからないし、もし好きなことを仕事として続けることができなかったとしても、それを自分に与えられた天命として丸ごと受け入れられたらよかったのに、と思う。それができなくて、「悲しき玩具」なんて嗤うしかなかった啄木を私は悲しい人だと思う。そして、入試前や進振り、就活といった進路を選択する節目節目に、自分の中にも石川啄木がいることに気づく。

あまりにまとまりない駄文だけれど、啄木的な私はSNSだけにして、割り切って潔くずんずん自分の進路に邁進したいなあ、という気持ちをアイコンの肖像に込めているつもりである。




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