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【戦後80年】現代史ルポ・原爆投下で死刑囚は2度殺された

 

1945年8月9日、長崎に投下された原爆


 時は1945年(昭和20年)8月9日、場所は長崎市内につくられていた「浦上刑務支所」。

 当時、九州に控訴院(現在の高裁で、福岡は戦後に置かれた)が置かれていたのは長崎市で、死刑囚を収監していた施設は「浦上支所」であった。8月9日といえば広島に原爆が投下された3日後である。

 プルトニューム型原子爆弾が投下されたのは11時02分。座標軸は「090158Z」予定の投下地点は三菱造船所であったが、気象観測の誤差から目標が少しずれて、爆心地は刑務支所の北約250メートルの松山町171番地になってしまった。

 また、近くの浦上天主堂、城山国民学校、長崎医大、附属病院、浦上駅、三菱造船所関係の事業所なども壊滅的な被害を受けていた。

 惨状について記した貴重な記録が残っていた。

<爆心地付近にあった浦上刑務支所では、副島千代支所長以下当時勤務中の職員18名、官舎居住家族35名および受刑者48名刑事被告人33名、計134名の全員が即死するという大惨事になった>(長崎刑務所70年の歩みより)

 記録には「死刑囚」の数字は記されていないが、別の資料には当日、同支所には「2名の死刑囚」が収監されていたとある。70年の歩みには「刑事被告人48名」の数か記されているので、死刑囚は被告人のなかに含まれていたのであろう。

 数字といえば当日、長崎県警察部の検視官が長崎警察署に「屍体検視名簿」を提出していた。そのなかに浦上刑務支所関係の検視被告も含まれていた。

 死者の内訳は中国人32名、朝鮮人13名、日本人33名、不詳1名となっている。合計79名である。この数字は受刑者と被告人の合計になるが、前出の長崎刑務所の歩みの数字では、受刑者、被告人の合計が81名になっている。その差は2名。その2名とは原爆が投下された11時02分以前に執行された死刑囚ではなかったのか。

 通常、執行は午前中に行うことが慣例化されており、この慣例は戦後も踏襲されている。となれば、2名の遺体は執行後、刑場と塀を境にした拘置区につくられた霊安室に安置されていたことが窺える。仮に10時に執行されたとなれば、空襲警報が解除された後のことになるが、正確な執行時間はわからない。だが、死刑の執行は戦時下の非常事態とはいえ、下界の騒ぎとは無縁の時間の中で執行が行われていたことは容易に想像がつく。

 執行されていた場合、霊安室に安置されていた遺体も、他の爆死者同様に遺体は炭化して見分けがつかなかったであろう。死刑囚は原爆で爆死したのか。それとも投下直前に執行されたのか。慣例の午前中、執行であれば「刑死」である。投下時間に生きていれば「爆死」であるが、時間から推定すれば死刑囚は「二度、死んだ」ことになる。遺体は他の爆死者と同じように市内の寺に埋葬された。

【著者プロフィール】
斎藤充功(さいとう・みちのり)
1941年生まれ、東京市出身。近現代史、犯罪史、刑務所事情など幅広いテーマを中心に取材・執筆を行う。これまで数十冊に及ぶノンフィクション作を刊行。過去代表作に『脱獄王 白鳥由栄の証言』(評伝社)、近著では長年取材を続けようやくその歴史をまとめ上げた『陸軍中野学校全史』(論創社)がある。

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