【写真家・近未来探険家 酒井透のニッポン秘境探訪】東京・国立市の”首吊りパフォーマー”『首くくり栲象』
2018年3月31午後2時、長きに渡って自宅の庭で毎日のように首を吊り続けてきた、パフォーマーの首くくり栲象(古澤栲/本名・守)さん(70)が、築地の聖路加病院で息を引き取った。肺がんだった。
2016年、記録映画『首くくり栲象の庭』が公開され、ドキュメンタリードラマ『山田孝之のカンヌ映画祭』(テレビ東京)では、芦田愛菜との共演も果たすなど注目を集めていただけに、この知らせを聞いた関係者やファンの人たちは、悲しみに包まれた。
栲象さんは、東京・国立にある自宅の庭で月に数日『庭劇場』を開催し、”首吊りパフォーマンス”を披露していた。多いときには、10~20人の観客が集まることもあった。入場料は、1000円。ファンの多くは、栲象さんの生きざまを見たくて通っていた。筆者は、何度かここを訪れることができた。
「ロープはほぼ完全に首に入っています。もしも、ロープを顎にかけているのであれば、後頭部が下がってしまいますよね。もちろん息ができなくなることもあります。口の中にはつばが溜まりますので、これを出していかないと喉が詰まってしまうのです。
何故、このパフォーマンスをやっているのかと聞かれると、何と答えていいのか分からないのですが、たとえばカメラマンが何故カメラを持って仕事をしているのかを考えればいいことなのかも知れません。人が何故食事をするのかということを考えれば、もっと分かりやすいと思います。これは、パフォーマンスでもありますが、自分の生活の一部でもあります」
”首吊りパフォーマンス”を始めたのは、1969年頃のことになる。『庭劇場』のない日でも毎日、4~5回はこのパフォーマンスをやっていた。朝起きるとコーヒーを飲んでから、まず1回やる。そして、寝るまでに毎日5回はやる。体調が悪いときは、3回ということもあった。それは、「壁を越えるため」だったという。一見、シンプルなパフォーマンスにも見えるが、演技者としての「壁」が立ちはだかっていたという。
栲象さんは、”首吊りパフォーマンス”のことを『アクション』と呼んでいた。「演技でもなければ、舞踏でもない」ということからきていた。ショッキングにさえ見えるこのパフォーマンスも、本人にとっては、特別なことではなく、生活の一部であり日常の一コマだったのだ。そして、その日常が、本人にとっては、とても大事なことだった。
1969年と言えば、日本は、高度経済成長の真っ只中にあった。栲象さんは、時代に流され、翻弄されるのが嫌で嫌でしょうがなかったという。しかし、なすすべはなかった。昼間から酒を飲んで、ゴロゴロとしていた生活が続き、「これではどうにもならない…」と思ったときに思いついたのが、”首吊りパフォーマンス”だ。
「実はね、肺炎で入院していたこともあるんですよ。首を吊るわけですから、息ができなくなります。そのようなときは、体の中に残っている空気を探すんです。入院する前のことになりますけど、肺の中に残っている空気をムリヤリ戻して思いっきり吸いました。そうしたら肺炎になってしまったんですわ。
今、肺の半分がつぶれているんです。長い間、体にムリをさせてきたので、そのツケが出たんでしょうね。そのときから、より『生きよう』という気持ちが強くなりました。『死』というのは、『生』と隣り合わせになっています。しかし、このパフォーマンスは、『死』を見せようというものではありません。『生』というものを表現しています。
この『アクション』には、オンとオフがあります。オンの部分というのは、演技の部分を指します。オフの部分は、演技をしていない状態を指しますね。分かりやすく言えば、自分の素の部分が出ているのがオフのときになります。その日、来てくれたお客さんによって見せたい部分が変わることもあります。より『生きよう』という部分が出る日もありますよ」
『庭劇場』で入場料をとるときの”首吊りパフォーマンス”は、いつも2回行われていた。1回に吊される時間は10分程度になる。この時間、栲象さんは、目を閉じていた。時々、両手を動かすこともあったが、体を自由に動かすことはできなかった。両足の下には、30センチほどの穴が掘られていたので、つま先が届くことはなかったからだ。
自分自身と向かい合って、その表現の奥深くにあるものを探求していた古澤栲さん。自殺を考えていた人が『庭劇場』を訪ねてから思いとどまり、生きていく決心をしたという話も聞く。数多くの人たちにとって、栲象さんのことは、忘れることのできない存在になっている。
ここから先は
定期購読《アーカイブ》
「実話ナックルズ」本誌と同じ価格の月額690円で、noteの限定有料記事、過去20年分の雑誌アーカイブの中から評価の高い記事など、オトクに…