暮沢剛巳さんの『核のプロパガンダ 「原子力」はどのように展示されてきたか』平凡社(2024)は、原子力に関連する様々な展示やPRがどのように行われてきたかを検証し、その背後にある意図やメッセージを探るものです。著者は、福島第一原発事故や広島・長崎の原爆展示、第五福竜丸事件、1950年代の原子力平和利用博覧会といった幅広い事例を取り上げています。著者は本書の目的を、展示を通じて原子力がどのように語られ、いかに社会に影響を与えてきたのかを理解するとしています。
もっとも、原子力をめぐる議論がしばしば二極化することを思えば、このような執筆の動機がある種の曖昧さを孕んでいることは否定できない。一方には、原爆や原子力災害の悲惨さや放射性物質の最終処分場の問題等を強調し、一刻も早く核を廃絶すべし、原発の運転を停止すべしという意見があり、もう一方には、エネルギー政策の観点からも原発は必要であり、安全保障の観点からも核の抑止力が必要であるという意見がある。両者の議論はどこまでいっても平行線のまま交わりそうになく、一方がもう一方を説得することも、あるいはニュートラルな立場に立つこともほぼ不可能といってよい。この問題では、著者である私自身が、自らの立場を厳しく問われることになるだろう。 思い切り単純化すれば、私は反核か否かと問われたら反核と、原発推進派か反対派かと問われれば反対派と回答する側の人間である。 可能な限り抑制したつもりではあるが、そうした自分の見解は本書の随所に滲み出ていることだろう。だが私は、本書でそのことを声高に主張する意図はまったくない。繰り返すが本書の目的は、各種の施設で原子力がいかに展示されているか多角的に取り上げることにあり、そのなかには原子力の安全性や必要性を訴えるPR施設の展示も含まれている。私が本書を執筆したのは各種の施設で原子力がどのように展示されているのかを紹介し、読者に考えるきっかけを提供するためであって、一方の立場からもう一方の立場を批判するためではないからだ。
出所:本書(P8-9) 1.「3・11」と伝承館 第1章では、2011年の東日本大震災と福島第一原発事故に関する展示がどのように行われているか考察しています。震災後、各地に設けられた「伝承館」や「祈念館」の中でも、福島県双葉町にある「東日本大震災原子力災害伝承館」に注目しています。 特に、地震そのものは天災だが、それに伴って発生した原発事故は紛れもなく人災である」とし、展示における責任の所在が曖昧にされていることを批判しています。伝承館の展示が震災の規模を強調しつつも、原発事故の責任を追及しない姿勢については、著者は「公共施設としての限界を露呈した」と指摘しています。
また先ほど触れた「語り部講話」に関しても、「特定の団体」への批判を禁じたマニュアルの存在が明らかになった。この「特定の団体」には政府や東電も含まれるとのことで、事実上の圧力といってもいい。地震そのものは天災だが、それに伴って発生した原発事故は紛れもなく人災である。 人災である以上、そこには必ず責任者が存在するのだが、同館の展示では誰にいかなる責任があるのかが明示されておらず、震災の規模が安全対策を超えるものであったことが強調されるばかりであった。責任者を糾弾することが目的ではないとはいえ、税金で運営される公共施設としての限界を露呈したといえるかもしれない。
出所:本書(P37) 2.ヒロシマとナガサキ 第2章では、広島と長崎の原爆展示が取り上げられています。両都市の原爆展示は、平和公園や記念館を中心に展開されており、それぞれの都市の歴史や記憶がどのように表現されているかが検討されます。広島では「原爆ドーム」が世界遺産に登録され、その象徴性が強調されていますが、長崎には同様の施設が存在しないため、原爆の記憶が広島とは異なるものとなっています。長崎では、被爆者の慰霊や追悼がテーマとなる展示が多いが、原爆の象徴となる施設の不在のため、記憶の継承にも違いがあるが、施設については、長崎の浦上天主堂に着目しています。
すなわち長崎には、広島における原爆ドームに相当する施設が存在しないことだ。象徴的な施設の不在は、おのずと長崎の原爆についての記憶や伝承を広島のそれとは異質なものとせざるをえなくなってしまう。 だが実は長崎にも、原爆ドームになりえた建物、すなわち、爆心地の近くにあって全壊したものの、辛うじてその原型をとどめており、被爆のモニュメントとして後世に遺すことが可能であった建物が存在した。 浦上天主堂である。
出所:本書(P91) 3.死の灰のパノラマ 第3章では、1954年に発生した第五福竜丸事件とその展示が取り上げられています。著者は、第五福竜丸事件は、広島・長崎に次ぐ被爆事件であり、反核運動の起点となったと述べ、その影響力を述べています。また、この事件がアメリカの核政策に与えた影響は大きく、『Atoms for Peace』政策に大きな打撃を与えたとし、事件の展示がいかにして核の恐怖を伝えているかを分析しています。
またこの第五福竜丸事件は、「Atoms for Peace」 との同時性という点からも重要である。 (略)この事件は主にアメリカが働きかけた 「Atoms for Peace」 とほぼ同時期の出来事であり、日本への核の浸透に大きな影響を及ぼすことになった。既に紹介したようなアメリカの一連の過剰な反応は、当時日本で展開しようとした原子力平和利用の推進、すなわち原子力発電の輸出に当たって、この事件が致命傷になりかねないことを警戒していたのも一因であろう。アメリカが推進しようとした原子力の平和利用の日本側の最大のキーパーソンが、この事件をいち早くスクープした「読売新聞」のオーナー、正力松太郎であったのは皮肉な話である。
出所:本書(P104) 核の平和利用と核兵器の開発がどのように絡み合いながらも、展示によって隠されている点があります。
4.森の中の「原爆の図」 第4章では、埼玉県東松山市にある「原爆の図 丸木美術館」が取り上げられています。「原爆の図」は、丸木位里・俊夫妻が描いた一連の絵画作品であり、原爆の悲惨さを描写しています。単に原爆の悲劇を描くだけでなく、反核のメッセージを発しているところを解説しています。また、白井晟一が設計した「原爆堂」についても触れています。
5.日本の原爆開発 架空の展覧会 第5章では、第二次世界大戦中に日本で行われていた原爆開発計画について取り上げています。日本でも秘密裏に原爆開発が進められていたが、その実態は戦後までほとんど知られていませんでした。「ニ号研究」「F研究」と呼ばれたその研究について、キーパーソンであった仁科芳雄と勝荒勝文策の軌跡を中心に考察しています。日本の原爆開発に関する展示が未だ実現していない理由についても言及しております。
同時期の他の原爆開発としては、アメリカや日本と同時期に着手したものの早期に断念したとされるナチス・ドイツや、戦後になってアメリカに続いたソ連やイギリスなどの例があるが、寡聞にしてこれらの国で原爆開発が展示となった例は知らない。どこの国にとっても原爆開発は最高機密であり、博物館で一般公開される展示の対象にはなりえないと考えるのが自然だろう。
出所:本書(P180) 6.原子力平和利用博覧会とその後 第6章では、1950年代に日本各地で開催された原子力平和利用博覧会が検討されています。アイゼンハワー大統領が提唱した『Atoms for Peace』政策は、日本における原子力平和利用のプロパガンダとして機能しており、その背後にある政治的意図を解説しています。
煎じ詰めれば、 「Atoms for Peace」の意図は、一.米ソ核戦争の回避、二.核保有国を米英ソの三か国に限定しそれ以上増やさないような管理体制の構築、三.アメリカが核の民生転用の主導権を握ること、以上の三点へと要約できる。
出所:本書(P190-191) また、博覧会では、原子力の未来がバラ色に描かれる一方で、核兵器や原子力のリスクには一切触れられていないという偏った展示内容を批判しています。
一見してわかるように、この展示では原子力の民生利用が様々な角度から取り上げられ、「夢のエネルギー」のバラ色の未来がこれでもかとばかりに強調されている。半面、この展示では核兵器や原子力潜水艦などの軍事利用や広島・長崎の惨禍、使用済み核燃料の後処理、廃炉に要する長い年月、放射能による環境汚染といった原子力のマイナス面には一切触れられていない。前年に起こった第五福竜丸事件は「読売新聞」のスクープであったにもかかわらず、博覧会場ではその影も形もなかった。
出所:本書(P198) 7.原子力ルネッサンスの挫折 東芝未来科学館 第7章では、東芝未来科学館における原子力展示が取り上げられています。著者は、東芝が原子力事業を基幹事業の一つとしていたにもかかわらず、現在では展示がほとんど行われていないことに触れています。
現在の東芝にとって、原子力事業があまり公にしたくない性質のものであることは、同館の展示からも容易に察することができる。だが東芝にとって原子力は長らく会社の基幹事業の一つであったし、 社史においても重要な部分を占めている。それが自社の歴史や活動を紹介するミュージアムからほとんど除外されているのは、どうしても不自然な印象を免れない。そこで本章では、現在の未来科学館の展示から意図的に排除されている東芝と原子力の関係に立ち入り、何が展示されていないのか/されるべきなのか、について考えてみたい。 現在、日本で原子炉製造の能力を持つ企業は日立、三菱重工、そして東芝の三社である。
出所:本書(P220) また、東芝の原子力事業が抱える問題点や、ウェスティングハウスの買収が、東芝を困難な状況に追い込んだところを指摘しています。
社内で「チャレンジ」と称されていた粉飾の実態についてここでは立ち入らないが、WH買収の重い経営負担がその最大の理由であることは間違いなかった。
出所:本書(P242) 東芝をはじめとする三社にとって、原子力は家電や重電、ITなどと並ぶ事業の一部門として位置づけられるのだろう。他の事業との大きな違いは、原子力は「国策民営」であり、プラントを発注するクライアントが国の意向を受けた電力事業者以外にはありえないことである。すなわち、原子力プラントを製造・供給するということは、国の原子力政策に賛同することとイコールであり、事故等が起こった場合には、当然そのことに対する説明責任も負うことになる。そのことを踏まえるなら、自社の歴史や活動を紹介するミュージアムにあっても、より充実した原子力展示が求められるのではないだろうか。
出所:本書(P247) 8.PRと廃炉 第8章では、全国に点在する電力会社のPR施設に焦点を当てています。著者は、各地の原発にはその必要性や安全性を訴えるPR施設が併設されているが、『3・11』以降は廃炉についての展示も散見されるようになっており、これら施設の展示内容や意図を検討します。 また、福島第一原発事故後の廃炉プロセスの展示について、著者は廃炉の技術的な課題とPR施設での展示のギャップについても指摘しています。
いうまでもなく、廃炉とは役割を終え、不要になった炉を廃棄処分することを指す。原子炉が廃炉される理由としては、当初想定していた耐用年数に達し安全性が疑われる場合、コスト面で採算が合わない場合、同じくコスト面で新炉を建設した方が割安と判断された場合などがある。当然だが、最初に挙げた老朽化によるものが最も多い。なお廃炉とはあくまで炉の解体を指す言葉であり、長期~無期限の操業停止や施設の一部解体を伴うモスボールは含まれない。福島の事故を受け、日本の原子炉の運転期間は原則として四〇年間とされているが、現在稼働中の原子炉のうち、四基は既に運転開始から四〇年以上経過している上に、四〇年を過ぎた原子炉が今後も増えることが懸念されている。
出所:本書(P275) 一般的な建築物の解体作業であれば、小規模なものであればひと月以内、大規模なものでも数か月以内には作業を終えられるだろう。しかし原子炉の場合、停止した原子炉が十分に冷却されなければ解体作業には着手できない。制御棒の挿入からそれまでには最低三年程度を要し、さらには使用済み核燃料の運び出し等、ほかにも長い日数を要する様々な作業があり、すべての作業を終了するには数十年もの長い年月を見積もる必要がある。さらに福島第一原発の場合は、ここに事故の後処理に要する長大な時間を加算する必要がある。なんとも気の遠くなる話だ。
出所:本書(P276) こうした工事の遅れは、廃炉が決定した他の原子炉にも概ね共通してみられる現象であり、廃炉がいかに長い年月を要するものであるかがよく分かる。
出所:本書(P278) 原発反対の立場にあっては、展示内容と実際の作業の進行速度の違いなども含め、足を運びにくい遠方でPRしている展示を確認した上で判断することも必要だとも述べています。
その意味でいうと、原発反対派はぜひとも本章で紹介した各地のPR施設を見るべきと考える。原発推進がどのようなロジックで展開されているのか、また国や電力会社がどのようなエネルギー政策を推し進めているのか、自らと反対の立場の展示から学ぶべき点は決して少なくないはずだ(同様の理由で、原発推進派もまた本書で紹介した「3・11」や、広島・長崎などの関連施設を見るべきであることはいうまでもない)。してみると、繰り返しになってしまうが、これらの施設のアクセスの悪さには、展示自体がある種の申し開きに過ぎず、多くの人に原発の必要性を理解してもらうことを放棄しているようにも思われて、なんともいえず残念である(唯一都心にある東電の原子力情報コーナーは文字通りの「情報コーナー」で、展示機能を有していない)。各電力会社も原発の正当性を訴えるなら、PR施設をもっとアクセスのよい場所、たとえば立地する都道府県の県庁所在地の中心街などに建設することを検討すべきであろう。
出所:本書(P285) 9.ブリュッセルから大阪へ 第9章では、1958年のブリュッセル万博と1970年の大阪万博における原子力の展示について比較検討しています。万博は国際的な情報公開の場であり、各国がその時代の最新技術や思想を発信する場となるなか、日本がどのように原子力を世界に示したかを分析しています。
大阪万博の日本館における原爆の被害の展示は、原子力をテーマとした展示の可能性が模索されるなか、当時の日本の原子力技術は対外的に広く紹介できる水準に達していなかったため、やむなく消去法で選択されたことがうかがわれる。もちろん展示に当たっては、観客に不快感を与えないのはもちろん、原子力の平和利用を強調することや、国の原子力政策や諸外国、とりわけアメリカとの関係に悪影響を及ぼさないための配慮が不可欠であった。原子力発電の技術と原爆の技術が表裏一体の関係にあることについて触れたが、原子力の平和利用の展示と原爆の被害の展示もまた、同じ写真のポジとネガのような関係にあるといってよい。
出所:本書(P306) さらに、岡本太郎の『太陽の塔』が、原子力エネルギーの象徴として位置付けられた可能性があり、展示が持つ象徴的な意味を探っています。
岡本にとって、原子力とは縄文と同様に芸術の問題でもあったのである。そうしたことを前提に考えれば、「太陽の塔」の太陽が、実はほとんど無尽蔵のエネルギーと同義である原子力のメタファーであったと考えても、決して不自然ではあるまい。
出所:本書:(P314) 繰り返すが、岡本太郎は「反核」ではあっても決して「反原子力」「反原発」ではなかったし両者を意図的に混同してはなるまい。私は、岡本太郎の再評価に正面切って異を唱えるつもりはないが、少なくとも偽りの神話は脱構築されねばならないと考える。
出所:本書(P317) 10.夢のエネルギーと再生エネルギー 第10章では、2017年に開催されたアスタナ万博を中心に、再生エネルギーに関する展示が取り上げられます。著者は、「未来のエネルギー」をテーマとしたこの万博では、多くの国が再生可能エネルギーを中心に展示を行ったが、ホスト国であるカザフスタンの置かれている環境を背景とした展示にについて考察しています。
環境問題についての展示もまた独特の視点によっていた。万博開催の時点で、カザフスタンは国内の電力の八〇パーセントを石炭火力に依存していたため、大気汚染が深刻な社会問題となっており、そのソリューションとしての再生エネルギーの必要性が強調されていた。ただその問題意識はあくまで国内の環境問題という留保を伴ったもので、地球温暖化問題という汎地球的な視点はうかがえなかった。アスタナは夏季こそ比較的過ごしやすいものの、冬季は氷点下五〇度近くまで冷え込むこともある酷寒の都市である。冬季の生活には大量の化石燃料が必要という事情があるため、やはり地球温暖化といわれても実感に乏しいのかもしれない。
出所:本書(P328-329) 11.最後に 以上、本書では展示を通じて原子力に関するメッセージがどのように発信され、受け取られてきたかを多角的に分析しています。 著者は、冒頭に記載したとおり、特定の立場からの批判を目的とせず、展示を通じて私たち読者に考えるきっかけを提供することを目的としています。 その際、原子力に関連する展示やPRがどのように行われ、それがどのようなメッセージを発信しているかがという分析を提供し、考察の材料を与えています。読む際には、原子力の展示がいかに「プロパガンダ」として機能してきたかというテーマも脇に置いて読み進めると理解が促進されると思います。 各章ごとにテーマが異なりますが、20世紀以降の原子力の歴史を学ぼうとされる方はお手に取られてみることをお勧めいたします。