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書籍紹介 内田樹『だからあれほど言ったのに』

 内田樹さんの『だからあれほど言ったのに』マガジンハウス(2024)は、さまざまな媒体に掲載した文章を集めたコンピレーション本です。内容は一貫しており、本書は、現代日本が直面する諸問題に対する私たちの生き方、向き合い方を問いかける一冊です。以下、いくつかの章を簡単にまとめてみます。

1.令和時代の不自由な現実
 著者は、まず現代日本における「大人」の不在を問題として指摘しています。年を取っていても、社会的地位があっても、その人が周りの人々の成長を妨げるなら、その人は『子ども』だ」と著者は指摘します。

 いくら年を取っていても、 社会的地位があっても、物知りでも、その人がいるせいで周りの人たちの成熟が阻害されるなら、その人は「大人」としての役割を果たしていないので、私の定義では「子ども」である。
「大人はかくあるべし」とか「大人の流儀」とか、そういうことを小うるさく言う人がいるが、そういう人の周りにきちんとした大人はあまりいないように思う。なぜなら、「なるほど、そういうふうにすれば“大人”になれるのか」と信じ込んだら、それはその人を幼児的な段階に押しとどめることになるからだ。

出所:本書(P20-21)

 年齢や地位だけで「大人」と見なされることへの批判を通して、著者が求める「大人」とは、「その人の話を聴いているうちに、『ああ、世の中は難しいものだ』としみじみ思うようになって、『ぼやぼやしておれん』と腰が浮くというような遂行的な効果をもたらす人」として周囲を行動に駆り立てる存在であるとしています。しかし、著者は、現代日本にはこうした「大人」が不足しており、社会全体が精神的に未熟な状態に陥っていると指摘しています。
 さらに著者は、日本が戦後80年にわたりアメリカに依存し続け、自主性を失っていることを問題視しています。安全保障戦略において日本は、「アメリカの要求を受け入れ、それを丸呑みにする。それしかしてこなかった」(P25)とし、岸田政権もその延長線上にあると指摘します。加えて、日本がアメリカの軍需産業の利益に奉仕し、不必要な軍備を高額で購入している現状を、著者は「合理的なメカニズム」(P27)と皮肉を込めて批判しています。

2.人口減少国家の近未来
 日本の急速な人口減少についても、著者は深い洞察を示しています。人口が2070年に8700万人、2100年には4900万人まで減少すると予測されていますが、著者はこれを単なる危機ではなく、新たな社会モデルを模索する機会と捉えています。しかし、現実には「都市集中」が進み、地方が衰退していると著者は指摘しています。自民党は地方の票を失いたくないため、この「都市集中シナリオ」を声高に公表しませんが、実質的には進行していると述べています。

 当たり前だけれど、そんな政策を公約に掲げたら自民党は地方での議席を失って、政権与党の座から転げ落ちることが確実だからである。だから、粛々と「都市集中」「地方消滅」シナリオを実現しながら、それについては何も言わない。
 そもそも「二つのシナリオのどちらを採択するかという問題がある」という事実そのものを政府は隠蔽している。そのことが国民的な議論になることそのものを回避しようとしている。

出所:本書(P78-79)

 著者は、地方の未来が犠牲にされ、都市の利益を守る政策が日本の人口減少問題を深刻化させているという構造を批判しています。この構想では、人口減少は止まらないということ踏まえ、次のように述べています。

人口減はもうこれからも止まらない。地球環境がこれ以上の人口増負荷に耐えられない以上、これは文明史的必然である。これを解決するための選択肢は、資源の地方分散か都市への一極集中か、いずれかである。
そして、資本主義の延命のためには後者しかない。地方を過疎化し、都市を過密化すればしばらくの間資本主義は生き残ることができる。これは19世紀英国で行われた「囲い込み」を人口減局面で行うという離れ業である。 成功するかどうかは誰も知らない。
でも、資本主義はそれを要請し、現代の経済システムで受益している人たちはそれに従うだろう。

出所:本書(P90)

 資本主義の構造的な問題に直面する中で、次世代の社会モデルをどう構築していくかが問われています。

3.社会問題に相対する構え
 著者は、現代の思想潮流である「加速主義」に疑問を投げかけています。「加速主義」とは、資本主義の矛盾を極限まで押し進めることで、次の時代へと移行するという思想です。しかし著者は、次のように警鐘を鳴らします。

「未来を早く知りたい」という焦燥感は私にも理解できる。だが、過去を振り返り、失敗から学習する習慣を失った人たちの前に明るい未来が開けるということがあり得るだろうか。」

出所:本書(P99)

 著者は、現実を見失わせるこの思想が、結局のところ新たな失敗を招くリスクが高まると指摘しています。
 また、暴力や戦争に対して著者は、「暴力を根絶することはできない。これは誰でもわかる。しかし、だからと言って『暴力の行使を抑制するあらゆる試みは無駄だ』という結論に飛びつくのは『子ども』だ」と述べています。暴力を完全に排除することはできなくても、抑制することは可能であり、一人でも死傷者を減らすための工夫をするのが「大人」の責務であると強調しています。

4.他者の思想から考える「自由さ」と「不自由さ」

 他者との関わりにおいて、無理に共感や理解を押し付けることが、かえって不自由を生む原因になると著者は指摘しています。「人間関係における尊重と敬意の重要性」をテーマとして考えさせる章であり、他者を尊重することがいかに関係づくりにとって大切かを示しています。 著者は、「敬意」がどれほど強力に相手に伝わるかを強調しています。

人間は他人から熱烈に愛されていても、それに気づかないということはある。しかし、他人から深い敬意を抱かれていて、それに気づかないということはまずない。
敬意にはどんな感情表現よりも強い伝達力があるからだ。敬意は、愛情よりもはっきりと相手に伝わる。たぶん憎悪よりも、羨望や嫉妬よりも、はっきりと伝わる。

出所:本書(P144)

 また、著者は自立についても考察を深めており、「インターディペンデント(相互依存的)な関係」が真の自立であると強調しています。著者は哲学者の鷲田清一氏の言葉を引用し、この考えをさらに明確に述べています。

 その時に鷲田(注:清一)さんから伺った話の中で一番印象に残っているのは『インターディペンデント (interdependent)』という言葉だった。
〈集団生活ってインターディペンデント(相互依存的)にしかあり得ないんです。 自立しているというのは決してインディペンデント(独立的)なのではない。 インターディペンデントな仕組みをどう運用できるか、その作法を身につけることが本当の意味での自立なんじゃないかな。〉(『大人のいない国』、プレジデント社、2008年、17頁)

出所:本書(P151)

 この「インターディペンデントな関係」が、現代社会において大人としての成熟への方向付けとして、また、他者との関わり方や社会的責任において重要な要素となります。


5.「書物」という自由な世界と「知性」について

 著者は、「学び」と「知性」の本質として、書物の力を強調しています。学びは「別人になること」であり、学びの過程で人は語彙や表情、思考、さらには立ち居振る舞いまでが変わっていくと述べています。

 いずれにせよ、少し前までは、三日で別人になるという連続的な自己刷新のことを「学び」と呼んでいたのだけれど、ある時期から誰もそんなことを言わなくなった。でも、学ぶことによって、人は語彙が変わり、表情が変わり、声が変わり、立ち居ふるまいが変わる。すべてが変わるという人間観・教育観に私は同意する。

出所:本書(P214)

 さらに、著者自身も大量の「読んでいない本」に囲まれており、そのことが常に自らの無知を自覚させるきっかけとなっています。書物は私たちに知識を超えた自由な世界を提供するものであり、知性に対する著者の謙虚な姿勢が感じられます。

 図書館とは、おのれの無知を可視化する装置である。 おのれの無知を思い知らされたことで足がすくむという経験と「この蔵書のうちの万分の一でもいいからその中味を知りたい」という学びの起動は合わせて一つのものである。
 無知というのは、単に知識が欠けているということではない。そうではなくて、無用の知識が頭に詰まっているせいで、新しい情報入力ができない状態のことを「無知」と呼ぶのである。これはロラン・バルトの定義である。私もその通りだと思う。

出所:本書(P212)

6.さいごに
 以上、本書は、現代社会の課題に対する私たちの生き方を問うものです。著者は「大人」の役割、国家の自主性、資本主義の限界を鋭く指摘しています。私たち一人ひとりが周囲の成長を促す存在になることを求めています。また、インターディペンデント(相互依存)な関係の重要性や、学びを通じた自己刷新の意義も示唆に富んでいます。
 現代社会の大きな変革の渦中にいる私たちが諸問題に向き合う中で、参考となる視点と行動指針を得られるでしょう。


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