2020年8月26日 サントリーホールの高橋悠治
今日のサントリーは、高橋悠治の独壇場だった。小泉文夫のテトラコルド理論が日本音楽の文法だとしたら、柴田南雄の骸骨論は生成文法である、といったような解説を、音楽現代(2018年11月号、特集「二刀流の巨匠たち」の「柴田南雄が開く場(フィールド)」)に書いたのだけど、《鳥も使いか》では、ポスト柴田南雄としての高橋悠治が聴けた。
(柴田南雄の作曲家/音楽学者としての二刀流について解説する必要か ら、骸骨論についても少しだけ触れた。)
何らかの生成文法が支配する「場」がまず存在し、その「場」の力学に緩やかに拘束されるように即興的に音が積み重なっていく(ただし、即興的に聞こえるだけで、実際には音は指定されている)。その呼吸の確かさと音色の美しさ。コロナ対応で社会的距離をとったオーケストラの配置すら、楽曲に味方するよう。
水牛楽団以後の高橋悠治の記譜は、「縦の線を合わせる」共時性もなく、特に読売日本交響楽団のようなオケのメンバーからすれば、判じ物のようなものだろう。音楽以前の素材がただ投げ出されているように思われるかも知れない。そうした中、断片的な素材がもつ音楽としての意味をしっかりとオケと共有し、紛れもない「高橋悠治の音楽」へと組み上げる、杉山洋一のディレクションの確かさ。
対して《オルフィカ》は、ポストクセナキスとしての高橋悠治。CD化もされている岩城宏之とN響の演奏からは、正直、クセナキスの亜流という印象しか持てなかった、が、今夜の演奏ではかなり遅めのテンポにまず驚く。確率過程でバラまかれた音たちは、クセナキスのような「音の雲」を作るというより、伝統的なオーケストラという制度から引き離されて個を主張する。
なるほど。作曲の過程で、各音のアーティキュレーションを決めた上でバラまいているのだから、「音の雲」としてしか知覚されないほどに密度が濃くなるとその意味がなくなってしまう(これは、クセナキスの《エルの物語》とシュトックハウゼンの《宇宙の脈動》の間でも聴ける作家性の差異である)。一部演奏家が二階席に陣取る空間配置を含め、すべての音が明晰に聞こえることの重要性を再認識。そこがこの作品における高橋悠治のオリジナリティの出発点となる。
結果として出てくる、ゆるりと濃淡の交代する音響は高橋悠治以外の何ものでもない。しかしながら、確率過程まで使ってオーケストラという制度をバラバラにしていこうという、アナーキーな情熱には恐れ入った。特に、山根明季子作品からゲームセンターのサウンドスケープが持つようなアナーキーさが失われていたのは、音響の上品さ以上に、一人の指揮者が全員を統括するいう、伝統的なオーケストラの制度に乗っかったが故と考えていたところだったから。