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「妄想の肯定」は「妄想の否定」か?──山本浩貴(いぬのせなか座)が考える、「妄想」にまつわる二つの可能性

本記事は、株式会社金風舎が9月30日に発刊する「妄想」をテーマにしたオムニバス単行本『妄想講義』の著者紹介記事です。

山本浩貴(やまもとひろき)
 1992年生。小説家/デザイナー/制作集団・出版版元「いぬのせなか座」主宰。小説や詩や上演作品の制作、書物・印刷物のデザインや企画・編集、芸術全般の批評などを通じて、生と表現のあいだの個人的な結びつき、または〈私の死後〉に向けた教育の可能性について検討・実践している。主な小説に「無断と土」(『異常論文』『ベストSF2022』)。批評に『新たな距離』(フィルムアート社)、「死の投影者による国家と死」(『ユリイカ』2022年9月号)。デザインに『クイック・ジャパン』(159-167号)、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座)。企画・編集に『早稲田文学』2021年秋号(特集=ホラーのリアリティ)。

「いぬのせなか座」という制作集団・出版元を主催し、小説家、デザイナー、編集者、批評家など人文のフィールドにおけるさまざまな仕事をされている山本さん。今回「妄想」にまつわる原稿を依頼させていただき、二つの角度から語っていただきました。一つは、自分の「妄想」を捨てることなくかたちにし、それを社会に流通させてゆく表現者としての在り方、またそのような活動を持続的におこなってゆくための場について。もう一つは、言うなれば「妄想」を「妄想のままに留めない」方法を示した前者に対し、「妄想」を「妄想のままで肯定的に捉える」方法を探ってゆきます。どちらも「妄想」というテーマについて真摯に向き合っており、『妄想講義』に載っているどの文章を読む際にも参照できると思います。

今回の記事では、二つの角度のうち「「妄想」を「妄想のままで肯定的に捉える」」ことについての紹介を行いたいと思います。

「妄想」が「妄想」としてただ肯定されるわけではない。むしろ「妄想」が「妄想」でなくなる瞬間を前提に「妄想」が肯定されるというねじれた構造が、「妄想」肯定の言説には生じているのではないか。

山本さんが『妄想講義』に寄せてくださったこちらの問題提起は重要です。そして、この問いは少なくない他の原稿への問いかけとしても機能します。すなわち「現実的な課題解決の一助となったり、あるいは金銭的利益を生むような“生産性”を持たなければ「妄想」に価値があるとは言えないのか?」ということです。

「妄想」が肯定的に語られるとき。そのもっともスタンダードなかたちは「いっけん非生産的に見える「妄想」が、現実になにかをもたらす生産的な役割を果たす」というものです。つまり「最終的には「妄想」の域を超えるからこそ、「妄想」が評価される」ことになっている。山本さんは、このねじれた構造へ「これで良いのか?」と問いを投げかけます。

はたして今後、個人の抱く「妄想」は、あるいはその塊のようなものとしての芸術や文学は、ただ「妄想」であるだけで肯定されることはないのでしょうか? 社会に役立つかどうかという点でその是非を測られるほか、もはやないのか?

ここから興味深い議論が展開されていくわけですが、なかでも山本さんによる「妄想の定義」は「なぜ「妄想」は想像や空想ではなく「妄想」なのか」という、根本的な問いにもスッキリと答えたものになっています。きっと、誰もが「あ〜」と納得できるはず。

ぜひ、その内容は本文でご確認ください!!!!!

9月30日発売『妄想講義 明るい未来の描き方と作り方』は絶賛販売中です!


金風舎のネット書店「金風舎DCH」にて、山本さんの記事のみ読むこともできます。

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