ツールと魂
言葉を意思疎通の道具とみるのか、コトダマの宿る神秘的な何かとみるのか-
特に後者は、現代人にとって理解することが極めて難しい感覚だ。太古の昔においては、人は自分の本当の名を他人に知られてはならなかったという。それは他人によって支配されることに直結していた。
かたや、人と人との関りをコミュニケーションと呼ぶ現代人にとって、言葉はコミュニケーションのためのツールだ。ツールは基本的に目的達成のために取捨選択されるものであり、その目的内容のいかんにかかわらず、基本的に合理的な傾向をもつものである。そしてそこには、言葉に霊が宿りうるという、かつての神秘の感覚はほぼ皆無である。
合理性の傾向を極限まで突き詰めた例は、プログラミング言語という人工言語である。そこには機能性という合理性しかない(プログラマーが解読するための、可読性という人間的な問題はあるにせよ、機能に終始しているという点は変わらない)。
今や、プログラミング言語は仮想現実を果てしなく拡張していっている。かつての詩人にとっては、言葉は世界の神秘に触れるための霊的なものであったはずだ。対してプログラミング言語は、世界を一から作り上げていくものだ。
世界の神秘に触れる言葉と、世界を作り上げる言葉。一見似たように見えて、まったく異質なものだろう。後者では恐ろしいほどにすべてが明確で、曖昧である点がまったくない。まるで暖かみのない光で隅々まで照らされる、影のない世界。
ふと、そんな世界で生き残れる人間はどんな生き物なのかと考える。機械になってしまったか、気が触れてしまったか。いずれにせよ、狂気の目をしていそうな気がする。
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