飲むのにつかうカップのたぐいの選択にむとんちゃくなまますごしていたと気づいた
はじめに
こだわりだすと際限がなく、はまると抜け出せない世界なのかもしれない。それは湯のみやコーヒーカップ、コップのたぐい。ぐいのみなどの選択。こだわりの一品を見つけはじめるとひとつではすまなくなると思う。おそらくそう。
きょうはそんな話。
推理小説は…
たしか小学5年生ぐらいのころ。学校の図書室の本を1冊ずつ順番に読んでいた。それがつづきいくつかの棚についてあっさり読み終わった。そしてつぎの場所。なにかシリーズらしくおなじ体裁の本がずらりとならぶ。推理小説だった。
海外の作家のこどもむけに翻訳した本。いまふりかえると有名なものばかり。ABC殺人事件とかモルグ街の殺人とか。アガサ・クリスティーやエドガー・アラン・ポーなど。
みわたすとこれらのジャンルの本がかなりのスペースをしめている。人気なんだな、きっと。そう思うと数冊読んでそのままとおりすぎることにした。べつの書棚の制覇にむかった。
なぜか。わたしにはそんなところが以前からあった。ぜったいにハマってしまう。ほかのおもしろい本をを読まずに「こんな本」ばかり読むようになる。もしかしたらこれからさき、一生ここから抜け出せなくなる、きっとそう。そんなおそれを背後にとっさに感じて避けてきた。
それでも大学時代にかた足がすっぽり沼にはまりかけ、ようやく抜け出せたのだが、20冊以上はあたまのなかに独特のつよい印象だけはのこっている。
それ以来、推理小説はまったく手を出さない。おとうとがおなじころに赤川次郎などの著作になどにはまっていたのを横目で見て見ぬふりをしていた。家にある活字は広告でも目をとおさないと気がすまないにもかかわらず。
コップや湯のみは
ほぼおなじことは湯のみやコップでもそう。とくにひとりぐらしをはじめて以降、何十年もおなじものばかり使う。手にするたびに、そういえば長年つかっているなあとたまに思う程度。もっとつかいやすい手になじむものをえらぼうかとか、気分によってつかいわけようかとちらりと思うことはある。
だが上のミステリーとおなじ。おそらくそのジャンルの探索と読破だけで人生がおわりそう、お気に入りの一品をみつけだす行動だけで生涯を終えそうと思うとやりきれない。そこで正反対の行動に出る。まったく興味をしめさずにすごすというありかた。
いつもかたわらにはクリスマスをデザインしたマグカップとコカ・コーラの景品にありがちなグラス。ほとんどそうしたどこかで入手してそのままつかいつづけているもので済ましてきた。そういえばコップは一度たりともじぶんで買ったためしがない。しいてあげるとすればご飯茶碗をはじめて買ったのは7,8年前。急須は2年前。
買わずに済ますが多い
ふりかえるとほかにもありそう。台所洗剤もそう。たいていもらいもので済ませてきた。こだわる性格が表出するときりがないことを自覚しているつもり。
幼稚園時代のはさみは農作業中に柄がこわれてしまいつかえなくなった。惜しいことだと思った。いったんつかいつづけるとものもちがよく、あらたなものを欲しないほう。それでつぎの購買の意欲へ向かわない。
おわりに
こだわりだすときりがないことをこどもながらに気づいてその書棚の本に手をださなかった。この「意固地」なパーソナリティーは基本的に変わっていないし、変えようとも思わない。ヒトさまに迷惑のかからないところだったのはさいわい。
これで平常のままのこころもちですごせて、なにも不満はない。上を見ればきりがない、横に目を向ければ「ふ~ん、そうなんだ。」ですませる。わが道をいく。それでいいし、かまわない。
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