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リアルとバーチャルの物々交換 電子マネーの世のなかにどちらもあってもいいのでは そのしくみについて考える
はじめに
タイトルを目にされた方。おどろくに値しない。まっこうから現代の経済に異をとなえるつもりなど毛頭ない。
物々交換とは究極のキャッシュレス決済。ある意味アナログなしくみが共存してもいいのではないか。なにもかもがべんりで合理的なせかいではねえとふとかんがえた。
べんりさを享受するなかで
すでに紙幣や通貨を見なくなってどのくらいかな。すくなくともこのあいだ、てもちのカードがつかえない店で財布(これすらカード入れに変貌しつつある)からやむなくしはらっていらい、現金をさわっていない。
昨今の病の状況がつづくなか、現金をとりあつかってきたことをあらためてみなおす機会となったのはまちがいない。わたしとてながく親しんできた聖徳太子、伊藤博文、夏目漱石などなどの面々、10や100などの描かれた丸い金属片を見なくなってひさしい。
新貨幣がまもなく流通するという。おそらく登場したとしても目にする機会はさほどないかもしれない。それほどまでに貨幣から遠ざかる生活となってしまった。
クレジットカードや電子マネーがわが身にいつのまにかまとわりつき、それほどの心理的な負担なしに浸透するのに時間がかからなかったとは。ある意味おどろき。
あまのじゃくの虫が…
さて、ねっからのアマノジャク。ヒトがこうするといえば、ああしたい。べんりさを世に浸透させる多くの方々にとっては異端で目の上のたんこぶ。少数者。そんな存在がわたしかもしれない。このあいだから「物々交換」はこれからアリかもしれないと思いはじめている。なにも全面的にとりいれようと考えているわけではない。
なにもべんりな兌換するものをもちあわせていない場合の手段としてこれほどいい方法はないのではと思いつづけている。なにより相手とコミュニケーションが図れる。交換が成立するということは利害が一致するわけだからおたがいに納得がいく。
じつは先日それをおこなった。わたしは研究で絹糸が必要だった。かたや相手のかたは熟れたウメの実を所望されていた。うめぼし用。わたしは昨年のがまだ残っていてことしは漬けないのでウメの利用に困っていた。
そこでそのはなしが出た段階で「アラッ、そう。」「じゃあ。」で成立。当日「こんなもんだけど…。」「へえ~、ちょうどよかった。」でおたがい「ありがとう。」で満足。
なかなかである。
山のものと海のもの
たいていは自然物の交換。そのほうが成立しやすい。あるいはかたほうが手づくりのもの。そのほうがおたがい納得できるのはなぜだろう。かたほうが店で売っている商品だったらそうはなりにくい。値段がわかってしまうととたんに親しい仲でもしたくないねぶみをしてしまう。
そうならないために物々交換の極意は自然物か手づくりがふさわしい。「きもちのこもったサービス↔手もちのもの」といったトレードでもいい。
おたがいに相手のモノに最大の価値を感じるうち、そのタイミングでの交換が最高。コミュニケーションの成果だし、あ・うんの呼吸もあって小気味いい。どうじにバーチャルで意思やおもいやりの交換もはたせる。
おわりに
そこにポイントや貨幣などの客観的な価値がからまないからいいのかもしれない。するとこの世のなかにぜひとものこしておきたい手段として「物々交換」は燦然とかがやく存在となりうる。
そういえばこのあいだやった「採れたてのやさい↔それをつかった料理」の交換はよかったなあ。