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ヒトとは変わった視点や立ち位置で観察しがちなみずからの性格について


はじめに

 どうも自分はヒトとちょっとちがうかもしれないと気づいたのは小学校高学年の頃。修学旅行の遊園地内でゆるされた自由行動。わたしは「自由行動」を文字どおりふだん関わるヒトビト、つまりこの状況では友人や先生方とはなれて自由に動きまわるんだと解釈。

そこで思う存分ひとりでうごきまわってみた。はしから端までそんなにひろい園内でないと気づいて歩調の合わなくなった友人たちと離れ、ぽつんと数時間をなにも遊具などにはふれずにすごした。それでようやく上のように気づいたわけ。たしか幼稚園でもそんなことが…。以前からそうだった。

きょうはそんな話。

解釈のちがい?

 どうもその傾向はいまだにつづいている。なにかしらヒトから説明を受けて、さあ所定の行動をはじめてくださいとなると、たいていのヒトは同時に言われたとおりに行動されるが、わたしは大方のヒトとはちがう行動になってしまいがち。

終着点はおなじでたしかに説明役の方の言った範疇なのだろうが、ふつうはそう解釈しないだろうというふうに行動してしまう。それでああそうなのかとヒトのあつまるほうへとすごすごともどる。

ずっとそうだった

 幼稚園から確実にそんな行動の連続で、遅ればせながらようやく小学校高学年当時になって「ありがちだ」と気づいた。わたしは言われたことの範囲のもっとも極端をいきがち。

大部分のヒトは幼稚園児でもその中庸あたりを選びがち。どうもその傾向が強い。「だってぼくは先生の話をそう受け取ったのだから。」

こうも言えそう。「しでかしたあとの合理化かもしれないが、ほかのヒトとおなじことをしたっておもしろくないだろう。結果が無難なものになりがちなのだから。」

やりがちなこと

 具体例をあげると参観日の算数の授業だった。担任は教室のみんなに向かい、「四角形をひとつノートに書きなさい。」とおっしゃった。つづけて「むかいあう角どうしでそれぞれ対角線をひきなさい。」と。

「どうだ、それらの対角線は交わるだろう。」と先生は自信たっぷりにみんなの顔を見わたす。「そうならなかったヒトは手をあげて。」わたしはおずおずと手をあげた。児童や保護者の視線がいっせいにこちらにあつまるのを感じた。

「ええ~、そうならないの?」先生はけげんな顔でわたしのノートをごらんになった。「ああ、なるほど、う~んたしかに交わっていないねえ。そう。◯◯(わたし)の四角形の対角線は外にあるね。」それを聞いて「ええ~、うそ。」とこんどは級友たちがのぞき込む。

変な図形

「たしかにこれは四角形だけど、きょうはこれは例外。べつの世界なんだよ。これは。」と先生はこんどは「4つのぜんぶの角が90度よりちいさい四角形」といい直した。

わたしは矢じりのような特殊な四角形を書いていた。こんなやつ。

わたしの書いた「四角形」


このうち1つの角は90度より大きい。したがって向かい合う角どうしをむすんだ対角線(対角線と定義するのは微妙だが)の一方は四角形の外を通りまじわらない。べつに先生をこまらせようとしてやったわけではない。ふと思いついた四角形がこれだっただけ。いつもこんな調子で極端を考えがち。

こまったちゃん

 どうもそれでまわりをひと手間かけさせてしまうらしい。役所の提出書類でよくありがち。解釈しだいでそうとれる場合には多めに準備して提出しがち。あとで「これも書いてね。」と言われるのはいちばんいやだから。すると窓口氏は「ああ、これはいりませんね。」と添付した書類などを突き返してくる。

あとになって「やっぱりいります。」となり出直すのはいや。そこで「ここにはこう書いてありますが」とつたえると、いったん奥のべつの方とやりとりしてもどってくる。そしてあれこれ説明してくださるがどうも釈然としないことが多い。

いわゆる条例の解釈や慣例でいらないらしい。たいていのヒトは迷わずすすめるのに、へそまがりのわたしがめったにないほうに迷い込みがちなのかもしれない。

おわりに

 どうも世のなかを斜に構えてみるくせがある。それで損をするまでにはいたらない。研究者としてはそのほうが常識にとらわれないでいいのかもしれない。そう思うようにしている。へそまがりであまのじゃくなのはたしか。


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