研究成果をオープンアクセスジャーナルに投稿する費用をまかなえない現実
はじめに
大学で研究のパートとして働いている。このしごとは文字どおり、学会発表や論文にまとめて公開までがひとつのしごと。しめくくりとなる論文投稿において、近年ではオープンアクセスジャーナルという手法が主流になりつつある。
ここではたとこまってしまった。オープンアクセス(OA)化するだけの追加費用が払えないのだ。これはわたしの研究予算がじゅうぶん確保できていないことを意味するらしい。OA化できないと、基本的に途上国の研究者や患者さんたちに自由に無料で論文を読んでいただけない。
どうも独法化以降、とくにわが国の研究者による一流論文誌への掲載数が低調になった。
中堅研究室で下ざさえしきれなくなった状況におもな原因があるとわたしは考える。裾野のひろがりがなくなってきたということ。
論文を投稿する費用とは
パートしごとで成果を出して論文を執筆、投稿先の論文をえらび提出して査読を受ける。首尾よくアクセプトされ、掲載にどのくらいの費用がかかるのだろうと念のため確認。論文規定のなかの費用の項目を見ておどろいた。
最初は見まちがいかと思った。つぎにゼロの数やドルを円にかえるレートをまちがえたかといずれも再チェック。
まちがいない。それほど高騰していた。20年前に従事していたころは年に10報ほど投稿して査読に受かり出版にこぎつけてもなんら研究費を圧迫しなかった。なにしろ論文にかかる費用など研究に必要な試薬や装置にくらべると微々たるもので、いくらだったか記憶にないのが正直なところ。
オープンアクセスジャーナルのしくみ
20年前の投稿学術雑誌のほとんどは大学、研究機関などの雑誌の購入者あるいはその所属機関(研究室の運営費用から)が論文誌の費用を負担していた。雑誌の購入費用が高騰しはじめたころ。働いている場合には所属の研究室や職場がはらう。つまり読者側がしはらう。
そののち登場したオープンアクセスジャーナルの手法はことなる。投稿・出版の費用は投稿論文がアクセプトされ、出版にこぎつけた著者もしくはその所属機関がしはらう。いいかえると投稿者側が負担する。
オープンアクセス(つまりネット上でだれでも無料で読める状態)にするかしないかは執筆者が選べる雑誌が多い。もちろんフルにオープンアクセスにするを選択する場合がもっとも高い費用となる。
参考までに一流誌と呼ばれるネイチャーの場合、1本の論文をオープンアクセスにするためのArticle Processing Charge (APC)は、€9,500 (129万円)(2022年8月15日時点)。
なかには先進国と発展途上国では費用に差をつけている雑誌がある。日本は前者で高くなる。したがって先進国?の日本の研究機関にいるわたしはオープンアクセスを選択しなくても先進国の費用負担を要求される。よく投稿していた国際誌の掲載料だけで20万円から40万円。およそ負担額は当時の10倍ぐらいだろうか。
出版費用がまかなえない
オープンアクセスは断念せざる負えなくなった。20年前ならばごくふつうに支払えた投稿雑誌のほとんどは費用を出せずに断念。
はたらいている研究室は外部資金をいくつか獲得し、共同研究室まで余分に構えるほど研究に専念しているところ。
それにもかかわらずよぶんな費用をあてがう余裕はどこにもない。すでにわたし自身、パートをはじめた昨年12月以降のパート代を、みずからの判断で研究のためのさまざまな諸費用にあて手元には残っていない。2週間後にはいる先月分のパート代は、研究情報のデータベースを保存するため、自宅からもちこむPCの改修につかうときめているほど。
論文投稿に関してスタッフの方に論文誌を安いほうに代えたいと申し出た。インパクトファクターは3分の1以下に下がってしまうし、それまで一度も聞いたこともない国内の雑誌(ハゲタカジャーナルではない)への変更。
それを聞いたスタッフのかたから、費用をなんとか工面するのでもとのとおりインパクトファクターの高い方に出しましょうと言っていただけた。もう1本の論文は2か月先のパート代を全部あてればなんとかなりそう。わたしはまったく手元に残らないので生活費をほかから工面しないといけない。
おわりに
これが現実。これでも成果が出せているのはまだいいほうだと思っている。なかには外部資金すらなく、お茶を濁すように年を越す研究者の方々もいる。
どうしてこうなってしまったのか。たしかに競争は必要だし精いっぱいの努力は惜しまないつもりでいる。
クニによる極端な研究費の集中のごく一部でもよいので、つめに火をともすようになんとか出せた研究成果のまともな出版機会ぐらいはあってしかるべきではないか。あまりに理不尽で余裕のまったくない状況に、研究の将来のあかるさの見込みなどみられない。