さて何がいるかといえば当面もっとも必要なものだけを身のまわりにおいておけばいい
はじめに
身のまわりのかたづけが終わろうとしている。かれこれ2か月ちかくかけて、梅雨のおわりとともにようやく頂上が見えた。
けっきょくのところ、ほんのわずかな衣食住さえあればいきていけるということ。それにつきる。
しばらくは煩悩が湧いて「これがない、あれもほしい。」ととたんにでてくるんだろうなあ。これまでモノにかこまれて不自由なくくらしてたから。
きょうはそんな話。
8月はじめには
ようやく新生活がはじまる。といってももとの家の活用法はきまらないままだし、学習サポートのしごとは新旧の両方を並立。行ったり来たりの生活がはじまる。
半年ほどかけてようすをみながらうごいてみないとわからない。ふくざつなままなのはどっちにしろいまサポートしている生徒たちのおちつきさきが決まるのが1年半後、そのころには大きく動こうと思っているから。
どのくらいはなれたところにいるか想像できないし、知るよしもない。じぶんのことでしょうと思われそうだが、根がはえてうごかない両親のようすをすぐに見に来れてようすを知りたい。そんな中途半端な2年間になりそう。
さて、持ちものは
急に身のまわりからモノがなくなり、かぜをひかないか心配なぐらい。これでも家族にいわせればまだ荷物は多いほうらしい。過去のしがらみのあるもののなかにはわたしの一存では処分できないものもある。ながく生きているとようすをみてようやくかたがついて、「じゃあ、とっておこう。」とか、「それなら処分するね。」となる。
ひとつひとつそんなふうだから入手したとき以上に束縛されて時間がかかってしかたない。それまでは当面、新居のかたすみに置いておく、あるいはつぎのすみかまでついてくるかもしれない。
思い出はあっても
処分品のなかには思い出深いものもあった。でもここ数年手にとるわけでも、ながめて思い出にふけるわけでもない。それらをどうしようかと考えるときりがない。そのモノ自体はすでに記憶のかたすみに遺存するにすぎない。モノ自体に未練はないんだとこのあいだストンとかたがついた。これでいい。
なにもこびりついたしがらみにとらわれる必要はない。いい思い出ならばそれを自由にふくらませて空想にあそべばいい。うっかり実物を目にするとじつはたいした経験でないとなりかねないし。
おわりに
なにがしかの対価をはらって手に入れたものもある。そのときどきでほしい、つかいたいとようやく手にしておりにふれて使ったもの。いまのわたしをかたちづくるのになにがしかの貢献をしてくれた。
もはやいびつかもしれないがこれらのものをつうじてわたしはできあがった。ときどきの用途にはじゅうぶん貢献してくれたはず。任にあたってくれた感謝とともに見送りたい。
モノへのしがらみは意外とそれほどでもないんだとあらためてわが身をふりかえる。むしろあたまのなかの記憶としてモノたちがかかわってきたことだけをのこそう。
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