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もしかしたらひきたて役以上かもしれない額縁を見るために美術館にむかうこともある
(2023.8.29加筆あり)
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はじめに
絵を描いたり見たりでおちつける。たまに時間があると美術館や展覧会場にむかう。もちろん絵を見るのがおもな目的。それ以外に興味をしめすことがある。
きょうはそんな話。
絵とともに
絵を見るのはたのしい。風景や人物、そして身のまわりのものから空想画や抽象画まで。絵の対象はかぎりない。どんなテーマの絵でもとりあえず興味をしめして見るほう。なかにはそのせかいにひきこまれる作品に出会えることも。絵画それぞれのせかいの入り口に立ち、そこからなかのようすをかいま見に行く感じ。どんなタイプのものでもそう。
絵に接する際にだいじなアイテムがある。それは額縁。個々の絵のせかいの窓わくのやくわり。展示室に何枚かの絵がかけられ、それぞれのテーマはことなる。連作などでないかぎりべつべつのせかいが描かれる。見る側はとなりの絵にうつるときにはちょっとした切りかえが必要。ある絵を堪能したら、あたまのなかをゆすぎつつ歩をすすめておとなりへ。
ここできもちを入れかえる。思考をいったんキャンセルして、あらたな窓からちがうせかいを覗きにむかう。
額縁をさかいに
この際のきもちのきりかえに役立つのが額縁。これはわたしだけのことかもしれないとことわっておく。もしも額縁なしに(といってもふだんはあまり目にすることはないかもしれないが)、そのまま壁に絵がはりついていたら、ふんいきはあきらかにちがう。
キャンバスに描かれた絵という物体そのものがそこにあるという存在が先に立つ。実在にとらわれて意識がなかなか絵のテーマのなかに向かいにくい。このキャンバスは古いなあとか、こんなに無骨な木枠に貼りつけられているのかと、気が散ってしまい絵のなかのせかいにきもちが向かわない。つまり集中できない。これはヒトによってちがうかもしれないがすくなくともわたしはそう。
絵をえがくときには基本的にがくぶちはつけずにキャンバスを木枠に貼りつけた状態でえがく。描きかけのあいまに絵からはなれてようすをみる。その際には額縁をかりにつけてみると絵の調子やバランスがとれているかよくわかる。
途中で額縁をつけないまま乾燥させ完成をむかえたことがあった。額縁をつけるとどうもしっくりこない。ちんまり縮こまった絵になってしまったと気づいた。
絵の周囲をおもいきりカットして額縁をつけたほうがしっくりくると気づいた。つまり絵が萎縮してしまっている。
現物の絵のサイズよりも
名画は現物の絵よりもたいてい大きく捉えられてイメージされているとなにかの書物で目にしたことがある。たしかにそうだと思える経験をひとつ。それはパリのルーブル美術館。もちろんたくさんの名画をそろえている。
なかでもレオナルド・ダ・ヴィンチ のモナ・リザは紹介するまでもない。たまたま鑑賞できた日はそれほど混雑していなかった。
都心の展覧会のようにただただヒトのせなかをみつつ、じわりじわりとまえヘ歩をすすめるということなしに自由にあちらこちら見て歩けた。そしてモナ・リザのまえにたどりつけた。この絵のかけられている場所ははほかとはちがい、とくべつにせり出しており、前面は数十センチほどへこみ低反射のガラスにおおわれている。もちろん監視する館員もいる。
それほどだいじなものだということらしい。第一印象は、ーえっ、こんなに小さいの?ーだった。ガラスのむこうにある絵は想像していたものよりもずっとちいさくかんじた。中世のドームの奥底の薄暗いろうそくにゆらゆら灯されるなかにかいまみえるかのようにどこか妖しさと幽玄さを醸し出してた。
さっそく横にまわる。だれもそこには近づかない。そばにいる監視の方の視線をかんじた。あきらかに挙動がほかの方々とちがって見えたのだろう。それもそのはず。
わたしのやろうとしたのはモナ・リザを囲う額縁に興味がうつった。この額縁は重厚ですばらしい。ちょうど法隆寺をおとずれたときにかんじた年月を経た木だけがもつ独特のもの。数百年もの歳月をこの絵とともにすごしてきた。
おわりに
額縁はその絵のせかいにいざなってくれる案内役。そのためにかかせないアイテム。現代アートのようにそれを必要としない作品があるのもたしか。両者のちがいはなんだろう。なかなかなっとくのいく説明はできないが、あきらかにちがうのは感じとり方かもしれない。
現代のアートは受け止め方も自由だし、作者の主張とかならずしも一致や合意をもとめられるものでもない。自由にあじわえればいいし、なにかをかんじられればいい。芸術の受け止め方の変化やひろがり。そのへんにちがいが額縁をはなれてあるのかな。古典的な名画と対比させるとおもしろい。
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