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ヒトとのコミュニケーションに距離感や疎外感を敏感に感じとるかたがすくなからずいる


はじめに

 コミュニケーションのきっかけは最初こそきっかけがほしいとだれでも思う。とうとつにじぶんからアタックするのは気がひける。昨今の状況においてさまざまな極小の接触で済む手段の普及はすすんだ。

たとえば地域や場所によるが、店にはいっても家にいたままでもスマホひとつでほぼことばをかわざすとも食事にありつける。

そのなかで極端にヒトとの接触にむずかしさを感じるかたたちがいる。その程度や人数はじつは考えているよりもふかくてひろがっているのではないか。

きょうはそんな話。

ヒトとヒトのあいだ

 ここ2年半ほど研究パートのしごとに就いている。いれかわりたちかわりさまざまな学生さんたちと接する。まっさきに気づいたのはひとりで行動していること。多くてもふたり。わりと集団でうごいていた学生時代の記憶からするとじつにシンプル。たしかにキャンパス内をみわたしてもそう感じる。いたってものしずか。

休憩時間に聞いてみた。「たしかにそうですね。」との返事がかえってくる。学食よりは家にもどって個食で食事をすませ、キャンパス内で調べものやレポートを書くのもひとりが多いという。

リモートの授業など昨今の状況がながくつづいた影響はすくなからずありそう。むしろそれがしぜんなのかもしれないし、そのまま習慣になっているらしい。なにげない会話のはしばしにふだんからそう行動するようすがかんじられる。

世代をこえると

 とくに年齢のはなれたヒトと会話した経験がすくないという。このキャンパスの先生と自由に話せる機会なんていままでないらしい。これにはおどろいた。こうして何不自由なくはなしができているのに。

すこしはなしをすすめてみると同世代どうしでさえ希薄にかんじてしまう関係性。話すようすからはかしこさをかんじられ、こちらへの配慮もじゅうぶんいきとどいているし、なにも社会にでても不自由はなさそう。

ふと思った。そうか、わたしがこうして話ができる学生さんはむしろきっかけさえあれば話ができていざ行動しようとすればできるかたたちなんだ。

視点をかえると

 数日まえ。その職場のまわりでちょっとしたことがあった。ゼミを開くのに空き教室をさがしていたところ、明かりのともっていない入り口のドアのあいたままの講義室をみつけた。PCの接続環境を確認しようとなかへはいろうとした。

するとだれもいないと思われたうすぐらいなか、ひとりのとまどった表情のままの学生さんと出くわした。わたしにぴょこりとあたまを下げつつみずから出ていこうとされていた。食事かなにかの途中だったよう。

くらい教室でひとりですごしていたらしい。すかさず「どうぞそのままつかってください。」とひとこえかけたがそのまま出ていかれた。もうしわけなかったなと思った。ひとりですごしたかったろうし、いきなりはいってしまいおどろかせてしまった。

おわりに

 このかたはたまたまだっただけかもしれない。わたしがいろいろ想像するのはよくないかもしれないが、ふと気になる。こうしたかたがたにはあかるい場所にいがちな立場からは気づきにくい。じつは居場所に苦労されているかたはもっといそう。

ここからは勝手な想像をはたらかせてしまう。

じぶんを極小化してしまう。とるにたらない存在にとってキラキラして世のなかになじんでいる相手にあこがれをもちつつも、そのなかまには到底はいれないとためいきをつきつつ、それでもなんとか日々をすごす。そんなふうにかんじやすい。絶大な障壁をかんじ昨今の状況もあってきっかけもつくりにくい。

なかにはなにげないひとことを聞いてこころにきずを負い、さらに足がむかわない、前にすすまない状態におちいりかけているかたもいそう。せいいっぱいここへ出てきてこうしてまぶしすぎるキャンパスのかたすみに居場所をみつけようとして。


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