
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー の緑色のつくりかたを参考にして油絵を描くのに使ってみた
はじめに
若いころから風景画を好んで描いていた。古今東西の画家たちの画集を図書館で借りれる。見たいだけ見れる。たまには美術館で催される展覧会で実物を見る。なかでもジャン=バティスト・カミーユ・コロー(以下コロー)の絵は美術のテキストでおなじみ。
そんな有名な画家のひとりだが風景画を模写で描こうとすると、なかなか再現しにくい色があった。それは緑色。その試行錯誤とその周辺について。
きょうはそんな話。
コローの絵
おそらく美術のテキストや画集でこの人物の絵はごくふつうに目にするかもしれない。ピカソやダ・ビンチほどではなくても「ああ、あの絵だね。」と多くの方々は具体的にあげるとうなづいていただけると思う。
それほど有名な画家で、風景画中心で肖像画も描く。どちらにも代表作のある数少ない画家のひとり。
模写しようとすると
ところが彼の風景画ではそう感じないが、人物画はとたんにむずかしいと感じる。デッサンがとても綿密だとわかる。たとえばモナリザに匹敵するのではと言われている「真珠の女性」の模写をしようと試みたが、すでにデッサンの段階でこれはとても困難な作業だと感じた。
顔はもちろんのこと、腕をかるく組むポーズはあきらかにモナリザを彷彿とさせる。ダ・ビンチも腕の習作がたくさんある。きっと苦労したはず。両者をくらべると、コローの腕はじつにほんのりやわらかに右手を添え、じつに自然で無理なポーズに感じない人間らしさをより感じさせる。
デッサン力がすさまじい。腕をしっかり画面に入れるということはそれだけの画力がないとむずかしい。模写しようにももはやため息しか出ない。
風景画で
コローはどちらかというと風景の画家。画集にはそうした絵が各ページをかざる。こちらでは構図。物語の1場面を見ているかのよう。遠近法はごく自然にとり入れられ、もはやそれを極端に感じさせるほどでもなく、絵画として自然で「力み」がない。部屋にいつまでも飾っても飽きないし、もはや絵をつうじた窓としてそのまま室内から桃源郷の世界をのぞきみているかのよう。
かといって誇張などはなく、あくまでも風景がつつしみぶかくひろがっている。そのなかで人物は添景のひとつにすぎない。あくまでも風景が主役のようだ。
思いのほかあかるい
コローの風景画を何度も模写した。描くたびに気づきがある。おそらくこのあたりから色をのせはじめたのかなとか、地平線の高さが絶妙とか。描きながらさまざま感じとれる。そして色。印象派の登場以前でどちらかというと陽の光を絵から強く意識して感じない。
古い絵はクリーニングによりずいぶん原画が明るかったと認識をあらたにする場合がよくある。きれいになった絵は中世の宗教画でも思いのほかあかるく鮮やかなので驚かされる。古い画集で見慣れたようすはそこにはない。
こののちに印象派の画家たちによって並置加法混色や点描によって光をより意識した明るい画面が登場する以前。コローの絵は印象派登場前のいわばひとつの表現上の到達点なのかもしれない。
緑色が美しい
画面に広がる木々のつくる影は濃い。森の印象は色の階調をそれほどないはずなのに、むしろどこまでも奥深く広がるかのよう。コローは絵の具をたくみに用いた減法混色によりこの奥深さを表現したようだ。
この緑色。じつは黒と黄色の混色らしい。じっさいに油絵の具でやってみるとたしかに彩度はおちるがさまざまな緑色ができる。おもしろくていろいろ模写でつかってみた。水面など明るい背景におくと緑の葉の生い茂る木々の奥行きやひろがりがうまく表現できる。なるほどコローはこうしたたくみな手法を駆使して描いたのか。またひとつ知れる。
おわりに
絵の世界はほんとうに奥深い。こうして時代ごとに追っていってもきりがないほど。このあと印象派の出現によって美術の表現の世界は大きく変化していく。時代の変わり目といっていい。絵画の表現はこののち次から次へと登場し、表現の自由度が極端にひろがる。時代背景とともにそれらをひとつひとつ追っていくのはたのしい。
こちらの記事もどうぞ
広告