ノート1冊があっというまに埋まってしまう数学ⅡBの大問解き
はじめに
高校生を教えるのに予習をする。学習サポートのしごとで予習の占める割合はとても大きい。たいてい生徒に教える正味の時間の2倍程度。場合によっては3倍かかるときも。それこみで報酬をいただいているといって過言でない。
個人事業とはいえ、いちどきに教える人数しだいで事業所ならば最低賃金を下回るかも。少人数をうたっている以上それもしかたない。予習にはまると時間をわすれて食事もそこそこで没頭してしまう。もっとわかりやすい手順はないかと探しはじめるとおもしろい。その一連の作業について。
きょうはそんな話。
数学は味わい深いもの
ラマヌジャンやオイラーなどの数学者の業績の一端について書物を読む機会がある。それらの数学者はいったいどれほどの頭脳の持ち主なのだろう。底知れぬほどなのはたしか。そっと覗いてみるのは興味深い。
話はとたんに変わる。若くしてひらめく天才とはまったくことなり、高校生の頃、「無限」を極限の単元で習った。つい横道にそれて「無限」についていらぬ想像をはたらかせてしまい、とたんにわからなくなってしまった。「考えちゃいけない」といわれるととたんにやりたくなる。
迷い道へ
いくたびかこうした「数学の迷い道」(わたしが名づけたにすぎない)に入り込んでしまう。「あな」にはまり「迷路」に入り、高校1年の夏にはわからなくなりはじめた。よせばいいのに興味本位でどうしても横道にそれてしまう。
どうにか赤点をとらずに切り抜けた矢先にまたしてもべつの迷い道に踏み込んでしまった。無限大を無限大で割ると…とナイあたまで考えはじめるととたんに迷走してしまう。授業でそちらへ進まないでよい回避法を習ったにもかかわらず、むかってはいけないといわれたほうへと行ってしまった。そのあいだに従順なクラスメイトたちははるか先に。
結局よくわからない
そんなことをろくすっぽ数学のわかっていない高校生(わたしのこと)が考えたところで「すばらしい」発見があるわけではない。行っちゃいけない理由がそこには頑然と存在する。考えなくていいところをつっついてみたくなる性分を持ち合わせた。学校の行き帰りにつらつらとゼロで割り算することの意味をついうっかり考えてしまう。
これも数学では禁忌。いまではわたしですら「やってはいけない」と小中学生に教える。「ルールなんだから」とその場ではお茶をにごす。こどもたちはそうなんだと一瞬けげんな顔をすれどもすぐにべつのところに興味が移る。こどもとは本来そういう生き物らしく、日がな1日新しいこと、自分がまだ知らないことに興味津々でつぎからつぎに対象を移していく。
ところがわたしは「こどもらしくない子」・「ふつうでない子」だった。「何で?」と考えだすとそのほかをほっぽりだして、そればかり考えてしまう。いわば「ふしぎちゃん」だった。
それまで身につけたほんのささいなこととむすびつけようとする。でも解決しない。まわりのおとなにたずねてもはぐらかされたり、めんどうがられたり。とにかくあてにならない。
本にたよる
そこでたよりになったのが本。学校の図書館にはそういった疑問に答えてくれる本がそれこそ山のようにある。しかし知りたいことをそのなかから見つけ出すのはなかなか骨の折れる作業。昼休みには運動場でともだちとあそびたいのに、疑問の手がかりをみつけださないとのどに刺さった魚の骨のようでどうもきもちわるい。
しかたなく図書館でつぎからつぎへと手あたりしだいに探そうとする。めったにそのつたない疑問にこたえてくれる記述を見つけられることなどそんなにない。それでもごくたまにみごとにほしかった手がかりを見つけ出せることがある。
まさに宝物でもみつけだせたようなよろこびが湧いてくる。帰っておとうとにおしえなくちゃといそいで本をとじ、放課後が待ち遠しく家に舞いもどる。
「じつは、ねえ…、」とふたつ下のおとうとにいま仕入れたばかりのことがらを嬉々としてつたえる。聞き手になってくれたおとうとはきょとんとした表情のまま。たいていその疑問に接したことすらないので、なんのことやらわかっていない。それでかまわない。わたしは満足。
おわりに
きょうの題目は高校の数学のはずが…。そう、きょうも数学の予習のなかで耳新しい部分があった。こうすればいいのかと見つけ出す。はるかむかしにおとうとに伝えたように、訪れる生徒たちにわかったばかりにもかかわらずつたえたくてウズウズする気持ちが湧いてくる。
それでかまわないし、こちらがおもしろがるようすが伝わればいいと思う。もちろんむかしとちがいなぜおもしろいのかがわかるように、多少でも興味をもってもらえるように伝えるのがわたしの役目だが。
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