あじわい深く住んでみたくなった もとからくらしていた感じのする松江
はじめに
出会いからして雨だった。でも何度か訪れてここをついの住処の候補にあげようかと思案している。そんな街、松江とそこの象徴のひとつ宍道湖。
きょうはそんな話。
とおい、とにもかくにも遠い
遠国(おんごく)という語感にあこがれる。古代において使われた語だろうが、近畿からみて島根の西半分の石見国や島々の隠岐国はそのひとつ。松江のある出雲国はその東。
ほんの数度、足を運んだにすぎない。首都圏のようにひんぱんに用事があって訪れる場でもない。
わたしのすむ地域(遠国のひとつ)から向かうとなると、空路でも鉄路でものりつぎが必要。かろうじてその日のうちにのりつげる。乗り過ごすと途中泊をせまられる。地方から地方へのアクセスとはこんなものとはなから覚悟しているが…。
そんな旅先だからというわけではないが、遠くに来たぞというきもちにさせてくれる場所だ。
はじめての出会い
はじめて訪れたのは20代おわり。しごとでだった。中心地の宿はなぜか混んでいてやむなく玉造温泉をえらぶ。宍道湖のほとり。松江との出会いにおいてこれが結果的によい選択となった。
仕事のつごうで鉄路をえらび、朝はやく家を出て岡山に寄る。宿への到着は午後8時を過ぎると駅から電話しておいたので、着いたらすぐに夕食をだしてもらえるらしい。
土砂降りのなかを勾玉のモニュメントを横目で見つつ宿に着き、迷惑にならないように食事を早々に済ませて、温泉に浸かる。
古代から知られる温泉で、美肌の湯といわれるだけにとろりとした透明な湯は肌になじみ、しごとと列車移動の疲れがすう~と抜け出ていく。雨でからだの芯まで冷えきっていたが、ここちよく温まり眠れた。
息をのむながめ
夜中も雨が降りつづいていたはずなのに、気づかないまま朝のうすあかりにすっきりめざめた。
昨夜ははっきりしなかったが、この宿、宍道湖のほとりにあるとの案内だった。うす明るく光の透ける障子をあけると、「おおっ」とおもわず声がでて息をのんだ。
まさか足もとのごく近くまで水があるとは。つり竿を伸ばせばとどきそうな湖面。
朝霧がただようなかで小舟の影が中景と遠景に。まさに日本画の世界。小舟で人影がうごく気配、朝はやくからのしじみ漁。漁師のかかえる漁具のうごきが白濁の影絵のなかで浮かぶ。現実ばなれした静寂の世界をしばらくながめていた。
旅先の気分のちがい
翌日から3泊は松江市内で仕事。市内をバスで移動、街なかを歩いた。そんなに距離を歩いていないが、おおまかに中心繁華街のようすがつかめた。城を中心に街がちんまりとひろがっている。その広さをここちよいと感じるし、街をいく人々の歩みがゆったりしていてこころ休まる。
せせこましい経由地の関西からむかうとなおさらそう感じる。街の規模が大きくなくちょうどよい。4日間の滞在でこの土地とこの地の人々のもつ空気をそこはかとなく感じられた。
城が、「はい、ここですよ。」とちょこんとおさまり、街のサイズにぴったり見合うかんじ。たがいに調和し違和感を感じない。余分にあか抜けないので疲れを呼ばない。街中にいながらしっかり息をできる。
訪れるたびにため息の出がちな大都会とちがう。ここにはあきらかにちがうものがある。ないわけでなく確実にある。それがわたしなりの価値観にすんなりとフィットしていて、なごむ。
宍道湖からの夕日
仕事が終わると夕ぐれ時の湖畔のホテル街を散歩。適度な間隔でたたずむ人がいる。ほんの気にならない程度。
ここからの視界はゆったりひろがる。観光地とはいえ、そのエリアは限られ、住まう人々の息づかいがそこここに垣間みえる。横をとおる家のほうから夕飯の料理の煮炊きのにおいがしてくる。
そして、夕日。とても低い位置に日が沈んでいく。何ものにもじゃまされず赤く染まりながらながめていられる。
おわりに
3泊4日を数年おきに数回くりかえしただけの場所だが、帰りが近づいてくると数年前からすでに松江に住んでいる感覚となりいとおしい。うしろ髪を引かれるとはこんな感じなんだろう。
すんなりと溶けこめそう、また来たくなる街はそう多くない。時をおかず身近な人がこの街について同じように言っていた。うんうんとうなづいた。まちがいなく松江と宍道湖はそうさせてくれる。
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