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世のなかにふつうにあるPCやスマホでもって世にいうゲームをしたことがない
はじめに
ただひたすらのふりかえり。行動の特徴にはみずからのパーソナリティーがにじみでる。あるいはすききらいから派生して個性がより助長されるのかもしれない。そんな経験を経て「わたし」ができている。ふだんのなかから「極端」をとりあげたい。
きょうはそんな話。
映画に行かない
世の流行に疎くなった。もちろん専門分野をのぞいて。以前ならばテレビや新聞、雑誌などから情報を得ていた。雑学なほう。「専門○○」といわれるのがしゃくだったのかも。だから雑学のクイズなどはけっこう答えられるほうだった。いまはどうだろう。雑学の内容すらかわりつつあるし。
情報をいまやネットから得る機会が多い。さて情報のかたよりについて。映画、公演、演劇に参加する機会はない。そういえば以前ならばヒトにたびたびさそわれて以降、見ようとしたり関連の情報をあつめようとしたりすらない。
とくにそれを必要としていないし、みたいとも思わない。あえて時間をつくろうとしないのかもしれない。そのかわりに美術館や博物館にはよく訪れていた。とくに足をはこんだことのない土地にむかうと時間をつくって向かった。
こうしてみるとある傾向がみえてくる。前者はヒトの集まるもの、後者はモノを鑑賞するもの。あきらかに嗜好がヒトよりもモノにある。モノとてヒトのいとなみによるものも多いが。
納得の行動
基本的にヒトぎらいかも。その点は納得。都会ではヒトの波に息苦しさを感じてしまう。めったにないがアレルギーをおこしたようになる。たえられなくてヒトのすくない場所をもとめてあたりをさまよったことも。
とはいっても鑑賞の対象になり興味をひかれる絵やモノは街のほうにありがち。やむなくヒトに遭遇しそうなところに寄らずにそこだけ見てくる。ちょうどアクアラングをつけて水中にもぐるように。
それじゃあ、たのしくないだろうと思われそう。絵はヒトの描くものだし、そこにヒトの息づかいやエネルギーを感じとれて圧倒される。博物についても自然やヒトがみつけてきたもの、つくったものから感動がもらえる。つまり元気がもらえる。エネルギーを充填しにいける。
こうしてバランスをとっているのかな。
さらにさがすと
そうそう。ゲームやかけごとをやったことがない。将棋や囲碁をのぞく、コンピュータやゲーム機によるもの。さらに競馬やパチンコ。こうしたものにまったく縁がない、というか体質的になじめない。現在はまったくちがうらしいが、以前にいちどパチンコ店にたまたまはいりこみ、ここは居場所ではないとさとった。
わかいころだった。タバコのけむりが充満する大音響のなかに大勢のヒトがずらりとならぶ。あまたの玉のじゃらじゃらと機材にあたる音にあふれかえる。窒息しそうで1分といられず外に出た。動物の馬を見るのはとても癒される。ところが競馬場のある街に住んでいたにもかかわらず未成年だったこともあり、その場所に出向く機会はなかった。
ゲーム機はひとりでもやれるものだが関わらない。小学生当時のわたしには友人たちが嬉々と操作する姿をはたで見て、自由につかえるはずの時間をもっていかれる存在としてしか認知できないと思った。
きっとそれは偏見にすぎないが。わたしはじぶんのつかえる時間を主体的につかいたい主義。機械に導かれるのはいや。もちろん仕事はヒトのサポート役なんだが、それはそれとして。
おわりに
これだけかぞえあげるとやっぱりかなりの変わりモノかも。ありゃ~もしかしてnoteのフォローしてくださるみなさんがクモの子をちらすようにさっといなくなりそう。
ヒトにこれらを強いたりアドバイスしたりはしない。ご安心を。このぶんおもしろみがないのかも。あくまでもそのなかで安寧にすごして、これらがかけ算で効いてここに存在しているだけ。
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