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鑑賞だけではもったいない 模写をとおしてその画家のタッチの特徴とともに構図や描く絵にこめられた背景を知れる



はじめに

 模写はたのしい。画家の絵にはいずれもその個性がにじみでている。何人かの画家を模写するとそれぞれからあらたな視点をまなびとれる。

きょうはそんな話。

大学のころから

 絵をさかんに描いていたころ。ふと同級生の女性から「これ、どう?」と差し出された一冊の画集。

ふと、いわさきちひろの絵に目がとまり、数日まえにクラスメートの彼女にその話をしたばかり。「いいよね。」「うん、たしかに。」おなじ興味のヒトが身近にいるといい。

おぼえてくれていたのだろう。絵にしたしむわたしにどうかとたずさえてきたという。せっかくなのでと数日借りた。

こころづかいがうれしかったし、偶然おなじ対象に目をむけていたらしいと知り小さなおどろき。

だいじにしているだろうに、よごしてはならないので、ひととおりあまり大きく開かずに鑑賞。彼女には感想とお菓子のお礼とともに返却。すかさずおなじ画集を地元の図書館で借りた。


画集で模写

 これはしっかり見たいと思った。観察力とデッサンのたくみさ。それだけでなく対象のこどもたちへのまなざしのあたたかさや想いにあふれている。

こどもたちはかたときもじっとしていない。ごく短時間のクロッキーと着彩で一気呵成に描いている。その背景にはたゆまない練習やスケッチのつみかさねを見てとれた。わが子のちいさな指先の表現、ありのままで自由奔放なこどもたち。なんのてらいをかんじさせずに表現している。

本来は彼女の絵は模写の対象なのかどうかはわからない。こうした淡彩を中心にしたたくみなぼかしなどは思いどおりにできるものではない。そのまままねしようとしてできるものでないのはたしか。模写というよりその技法のごくごく一端を知れるに過ぎないし、ほんの表面をなぞったにすぎない。

その意味では模写とは言えないだろうし、あくまでも初心者のわたしが水彩をまなぶうえでのプロセスだったのかも。

ぼうしのつけひもの端を口にくわえてこちらをじっとみつめるこどもの淡彩の模写が完成しあらためてその絵をみているとじんわりきた。きっとこの何倍、いや何十倍も画家はこの子のありのまま、かれんさ、はかなさ、さらに生きとし生けるものへの憧憬、唯一無二性、もののあわれ…などなどこどもからかんじとれるだけ表現しようとしたのだろうと。

気づきが豊富

 それだけでない。戦争と母子を対象に描いている。一転して複雑な感情をうちに宿したその状況下での母親の目の表現。これはわすれられない。これはさすがに模写できない。なんどみてもさまざまにうけとれる。見るものにこれほどのインパクトのある表現、いまこうして文章を記しているあいだも目に焼きついてはなれないほどの力づよさ。

いったん模写をつうじて知り得た画家の技量の奥深さ。それをのぞき見たに過ぎない。どれだけ深遠なものなのか。けっして強く主張しない。すぎた
パフォーマンスなどはみじんもない。ただそこには母と子。それでじゅうぶん。

絵のうったえる力の大きさや偉大さをこの画家をつうじて知れたと思う。

おわりに

 模写に関してはさまざまな画家の気にいった絵についてそののちもやっている。うまく模写しようとか、おなじ画材をえらんで描こうとするわけではない。

むしろ自由に、筆をはこび色をのせる。するとその画家の特徴の片鱗がごくわずかでも感じられたとすれば満足。「そうか、そうだったのか。」という絵をなにげなく鑑賞していただけでは気づけなかったことにほぼかならず遭遇する。着手した画家いずれもそうだった。

模写も奥が深そう。

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