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【批評の座標 第9回】オブジェと円環的時間――澁澤龍彦論(七草繭子)
第9回に取り上げるのは、サドをはじめエキセントリックな外国文学の紹介者であり、古今東西の奇譚を蒐集するコレクターであり幻想的なエッセイスト、そして遺作として『高丘親王航海記』を遺した小説家でもある、あまりに多彩な顔をもつ澁澤龍彦。澁澤のオブジェへの偏愛を軸に、その冒険的な知性の輪郭を鮮やかに描きだすのは、今回の論考でデビューを果たす七草繭子(N魔女)です。
――批評の地勢図を引き直す
オブジェと円環的時間――澁澤龍彦論
七草繭子
一 序文
貝殻や骨は、いわば生の記憶であり、欲望の結晶である。生はそのなかで、かっちりと凝固し、つややかに光り、歳月に耐えた永遠性を誇っている。[1]
寝る前には必ずガラスに閉じ込められた半透明の海月のオブジェを眺め、起きたら自分もガラスの海月になっていたら良いのに、と思いながら眠る。子供の頃からオブジェが好きだった。
幼少期、祖父の家には沢山のオブジェがあり、私はいつもそれらのオブジェに魅了されていた。特に印象に残っているのは、例えば、鉛でできたハート型の重し、覗くと向こう側が見える透明のガラス製の馬、ねじをまわすと鴨の親子の人形がぐるぐると円を描いて泳ぎだすオルゴール。白い紙粘土でできた笑った顔の兎。ラッパを吹く天使が透明の球体に閉じ込められたスノードーム。
オブジェは死んでいる、生きて感情を持っていたらそれは生命でありオブジェではない。死んでいるからこそオブジェなのだが、同時にオブジェは死んでいるからこそ永遠に存在し続ける。そこには目盛りも秒針もない。完全に静止し、固定化された時間が閉じ込められている。オブジェは日常生活において使用され、何らかの役に立ち、消耗される道具に比べ、役に立たないがゆえに世界にとって余剰である。しかし、余剰であるがゆえに、オブジェは、直線的な時間が流れる私たちの日常的な世界に対する裂け目として、つまり円環的な時間が流れる世界として、静かに存在している。
幼い頃、子供ながらにオブジェが自分の生まれる前からそこにあることに驚きを感じていた。オブジェ一つ一つがまるで一つの閉じた小宇宙であり、一つの迷宮のようで、眺めているだけでいつでもその世界の裂け目という入り口から迷宮に入り込み、好きなだけそこに迷い込むことができた。『石が書く』のロジェ・カイヨワによれば、オブジェとしての石は次のようなものであるという。
東洋のある種の伝承では、節くれだった木の根や、岩や、小穴が開いたり、縞目がつけられたりする石などの、形や模様によってもたらされた驚異から、霊感の湧き起こることがある。その根と岩と石は、山や深淵や洞窟に類似している。それは空間を要約し、時間を凝縮している。それは長い夢想、瞑想、陶酔の対象であり、「真の世界」と交渉する手段である恍惚を支えるものなのだ。賢者はその根や岩や石を熟視し、そのなかに入り込み、そこで道に迷う。そこに沈み込む。伝説によれば、彼はもう人間世界には戻ってこなかったといわれる。[2]
澁澤龍彦(1928-1987)が紹介する世界のあらゆる人物や事件、植物から美術作品にまつわる様々なエピソードも、カイヨワのそれのように現実か虚構かわからないそれ自体で完結した迷宮のような小宇宙であり、まるで鉱物の断面のように複雑だが一貫した美意識と規則性を持った不確かなものの不思議さと驚異がぎっしり詰まっている。例えば、透明な青いガラス瓶に太陽光が反射して独特な光を発しているのを見つけてうっとりする時、私は澁澤のオブジェについて書かれた本を開きたくなる。
澁澤龍彦はオブジェを愛し続け、円環的な物語を愛し、円環的な時間を生きた人である。
古今東西の文学作品や詩からオブジェをテーマにした数々の文章を澁澤が独自に収集し、紹介した『オブジェを求めて』のアンソロジーの序文で澁澤自身が語るところによれば、澁澤のオブジェへの偏愛は次のようなものであるという。
どういうものか、私は子どものころから役に立たないものが好きで、もし人生一般に対する好みの基準を一言で要約するとすれば、それこそ「役に立たないものが好き」ということになってしまうにちがいない。つまり生産性の哲学や倫理が大きらいなのである。私のオブジェ好きも、どうやらこの骨がらみになった思想とふかい関係があるらしく、思想も骨がらみになってしまえばほとんど趣味と見分けがつかないから、これは趣味の問題といってもよい。あるいは今日の流行語をもって、ビョーキといってもよいであろう。[3]
そのような澁澤の発言の通り、澁澤の部屋は人形、貝殻、鉱物、骸骨など、澁澤が偏愛する様々なオブジェで埋め尽くされており、『夢のある部屋』、『少女コレクション序説』、『玩物草紙』など、多数の著作で様々な玩具=オブジェにまつわるエピソードやオブジェそのものの考察とともに紹介されている。
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役に立たないもの、使用価値のないもの、そのようなオブジェを愛するとは一体どういうことなのか。それらのオブジェをどのようにして愛したのか。澁澤の幼年期のエピソードから辿ってみたい。
[1]澁澤龍彦「エロスとフローラ」『少女コレクション序説』、中央公論新社、一九八五年、一四九頁。
[2]ロジェ・カイヨワ、菅谷暁訳「石の中の画像」『石が書く』、創元社、二〇二二年、一八頁。
[3]澁澤龍彦『言葉の標本函 オブジェを求めて―渋澤龍彦コレクション』、河出文庫、二〇〇〇年、一六頁―一七頁。
[4]『「総特集」澁澤龍彦:ユートピアふたたび』、河出書房新社、二〇〇二年、二―三頁。
本連載は現在書籍化を企画しており、今年11月に刊行予定です。
ぜひ続きは書籍でお楽しみください。
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執筆者プロフィール
七草繭子(ななくさ・まゆこ)静岡県出身。大学では美学美術史を学ぶ。現労働者。一番好きな鉱物は孔雀石。X(Twitter) : @LUVNA_LEVI
次回は9月前半更新予定です。後藤護さんが種村季弘を論じます。
*バナーデザイン 太田陽博(GACCOH)