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【批評の座標 第23回】「あなた」をなかったことにしないために――竹村和子論(長濵よし野)

「批評の座標」最終回の本論考で取り上げるのは、英米文学者でありフェミニズムの思想家、ジュディス・バトラーの訳者としても著名な竹村和子。日本のフェミニズムに功績を残しながらも早世した彼女の思想を読み解き、その呼びかけに応えるのは、大庭みな子を研究する傍ら在野の編集者・ライターとしても活躍する、長濵よし野です。

批評の座標
――批評の地勢図を引き直す

「あなた」をなかったことにしないために

――竹村和子論

長濵よし野

アイデンティティの概念を「差異化」という言葉で言い換えれば、一方で、周縁を見えなくして均一化する抑圧操作を、差異化という戦略を使って可視のものとしながらも、他方で、差異が固定して新たな階層秩序に陥らないように、無限に差異化を押し進める、そのような二重の作業が、ぜひとも必要だということになる。[1]

 ここにわたしがいる。脳裏には――今遠くでたしかに呼吸をしている――さまざまな「あなた」(たち)が浮かぶ。それぞれを今、個別具体的な「あなた」として思う。わたしはわたしのことを「わたし」だと思う。そしてあなたもまた、あなた自身を「わたし」と思い、わたしのことを「あなた」と呼ぶだろう。
 これからはじめるのは、ジュディス・バトラーの訳者で知られる竹村和子(1954-2011)という人物とその言説についての批評であり、話題は主に、性にまつわるアイデンティティの政治と倫理のことになる。そのような文章を書くにあたり、わたしは「わたし」のこと、そしてわたしが確かに知る「あなた」(たち)のことを思いながら書こうと思う。その理由は、この社会をとりまく抑圧と差別について考えるとき、「わたし/あなた」がどのようなアイデンティティや立場であれ、このわたし(たち)こそが一人も洩らすことなくその抑圧をうむ構造にとりこまれているからというのがひとつ、そしてもう一つ重要なのは、わたしがその抑圧構造に抗したいと思うとき、最初の手がかりとして、少なくともわたしにとって最も確かなのは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「わたし」が感じたあらゆる苦悩や傷や喜び、この抑圧の構造を要因のひとつとしてうまれた「わたし」の感情や悩みだと思うからである。
 だからこそわたしは、この先を書く前に、いわば半径1メートル以内でわたしが感じたこと、あるいは出会ってきたすべての「あなた」を思い出すことからはじめる。大きな構造を今の状態から変えようと思う時、最初に必要なのは、そのような近距離からはじめることであり、それこそが大きな構造をも変えていくことにつながるとわたしは信じている。そしてこれから論じようとする竹村和子もまた、多くの人のもとにその言葉を届けつつも、後に詳述するようにそのような近距離の「わたし/あなた」からフェミニズムをはじめとするセクシュアル・アイデンティティの政治と倫理について思索を深めていった人であった。むしろそうした竹村の言説の姿勢が、個別具体的な「わたし/あなた」を思うということに、わたしを向かわせる。そのように言うのが正しい。

 冒頭の引用はトリン・T・ミンハ『女性・ネイティヴ・他者』の訳者あとがきで竹村が書いたものだ。英米(/英語圏)文学、批評理論、フェミニズム、セクシュアリティ研究を専門としつつそれらの横断的な研究者でもあった竹村和子の言説を端的に説明するとすれば、わたしはこの一文を選ぶ。ここにみえるのはすなわち、抑圧構造に向き合う上で、二項対立/二項対立ではとりこぼしてしまうものの往還が必要であるということだ。
 たとえば女性差別や同性愛差別といった差別と抵抗の歴史を考えるとき、まずそこで考えうるのは、そうした差別が、「男性ではないもの」とされてきた「女性」というカテゴリーに対する差別、「異性愛者ではないもの」とされてきた「同性愛者」に対する差別として、考えられてきたということだ。これは、抑圧構造の一側面を二項対立的にとらえたものであり、そのような二項対立のもとで発生している権力勾配は是正していく必要があるのは言うまでもない。とはいえ抑圧構造の「一側面」であると書いたように、単純な「男/女」「異性愛/同性愛」という二項対立を持ち出すだけでは、トランスジェンダー・ノンバイナリーのライツや、「女性」「同性愛者」とカテゴライズされる中で発生する権力勾配を無視しかねない側面があるのも事実である。
 構造的な問題に抗しようという時、そこでは二分法によって可視化されるべき差別の現状が一方ではあり、もう一方では、単純な二分法であらゆる声を抹消してしまわないように、「無限の差異化」つまり、カテゴリーの外縁そのものをとらえ直し続ける必要がある。竹村が想定しているのはそうした往還であり、その双方の間に矛盾を抱えているとしても、抑圧の構造に立ち向かうという意味では目指す先は一致する。そうした無限の往還に向き合ったのが竹村和子という人であった。

 いま、女性差別や同性愛差別、トランスジェンダーやノンバイナリー、アセクシュアル、アロマンティックに対する差別、人種による差別、その他ありとあらゆる「正しくない」として排斥され、抑圧され、棄却されてきたアイデンティティに対する差別について考え、抗しようというとき、なぜ竹村を読み直す必要があるのか。それは、おそらく単に二項対立的なものとしてとらえられがちなこのアイデンティティの政治について、そして二項対立だけでは取りこぼしてしまうものがあまりに多すぎる「倫理」の問題について、竹村の言説は「無限の差異化」、境界の絶え間ない引き直し、という往還的思考法を実践として提示してくれるからだ。またそれを「わたし/あなた」の距離からはじめていく竹村の言説は、それぞれの「わたし」から、一歩踏み出していけるということを示してくれる。


[1] トリン・T・ミンハ『女性・ネイティヴ・他者』竹村和子訳 (岩波書店・1995)「訳者あとがき」p243

本連載は現在書籍化を企画しており、今年11月に刊行予定です。
ぜひ続きは書籍でお楽しみください。


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執筆者プロフィール

長濵よし野(ながはま・よしの)2000年生まれ。神奈川県育ち。早稲田大学 大学院 教育学研究科 国語教育専攻 修士課程在籍中。大庭みな子について研究するかたわら、フリーの編集者・ライターとしても活動する。
『とある日 詩と歩むためのアンソロジー』(2023)では編集組版を担当し、「とある日」編集部として責任編集・川上雨季と共に第12回エルスール財団新人賞(現代詩部門)を受賞。X(旧Twitter):@lululu2_22


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