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本の風景「瘋癲老人日記」谷崎潤一郎(1962年)


異次元の長寿


 映画『男はつらいよ』シリーズが終わった。「フーテンの寅」こと、渥美清演じる「車寅次郎」が、テキヤ稼業で身を立てながら、全国津津浦々を旅しながら恋と笑いのフーテンぶりが、実に50年の長きにわたって愛された。そもそも「フーテン」とは、①定職を持たずに街中をふらつく人、②社会からはみ出している人、③1960年代の和風ヒッピーと説明されている。また、「瘋癲」は漢和辞典によると「瘋」も「癲」も、①精神が狂ったさま、②常軌を逸した言動をする人(『漢辞海』三省堂)と記されている。フーテンと瘋癲、言葉の重さの違いは感じるが・・・。そして、「異次元の高齢化社会」が到来する。凡そ3人に1人が高齢者となる。街中に高齢者があふれ、老人は「フーテン」か「瘋癲」となって、「いただき女子」に熱を上げ、「ロマンス詐欺」や「投資詐欺」に名を連ねる。

瘋癲老人日記



予は77歳。予は脳溢血の後遺症、高血圧、心筋梗塞等多くの持病を抱え、そのため心臓や手足が無性に痛む、満身創痍の状態である。多量の薬を服用し、その知識は医者も驚くほどだ。そして、時に心臓が、常に右手が耐えられないほどの痛みに襲われる。それでも食欲と性欲への歓心は衰えない。日々の日課である日記に記す。「現在ノ予はハサウ云ウ性欲的楽シミト食欲ノ楽シミトデ生キテイル」。この気持ちに嫁の颯子(さつこ)だけは気付いている。「オジイチャン、シャワーノ鍵ハ開ケテアルカラネ」。予はシャワーの音が聞こえると颯子のところに入って行って、その身体にキスを迫る。「膝カラ下ナラ」許してくれる。予はびしょぬれになりながら颯子の足にむしゃぶりつく。颯子の求めるものは何でも買い与える。自家用車の「ヒルマン」、300カラットの「トルコ石」・・・。「痛イヨウ、痛イヨウ」と子供のように颯子を呼ぶ。「痛イ時ノ方ガ一層感ジル」。予は決める。死んでも颯子の足に踏まれたい、だから颯子の「足ノ仏足石ヲ作ル」。老いぼれ爺の骨をこの仏足石の下に埋め、いつも踏まれて、どこかしら生きている予の魂も痛みを感じて、「モット踏ンデクレ、モット踏ンデクレ」と叫ぶ。

谷崎文学



 谷崎潤一郎(1886~1965年)は耽美主義で知られる。『刺青』(1910)、『痴人の愛』(1925)、『春琴抄』(1933)など奔放で魅惑的な女性が描かれ、そこではサディズム、マゾヒズム、フェティズムが表裏一体となって彼独自の「美」が追及される。大正期の彼は「性的悪魔主義」を自ら語っている。一方、『細雪』や『谷崎潤一郎訳源氏物語』など日本的な美も丹念に語られ、日本語の美しさが追及されている。戦中、谷崎の小説は国家の非常事態にそぐわない、として軍部の圧力を受け、『細雪』の雑誌掲載の中止や出版の禁止処分を受けている。彼はそれでも執筆を続け自家版で出版している。『瘋癲老人日記』は彼の最晩年、死の四年前、最後の作品である。この当時、彼は高血圧の後遺症で左手が麻痺し、口述筆記で書かれた。「マゾ、サド、フェチ」と一体となった女性美への憧憬は健在である。

谷崎と佐藤春夫


あはれ/秋風よ/情(こころ)あらば伝えてよ/ー男ありて/今日の夕餉にひとり/さんまを食らひて/思いにふける、と/さんまさんま・・・・
谷崎夫人「千代子」への佐藤春夫の秋波「秋刀魚の歌」である。
 谷崎は千代子夫人との間に「不満や悔恨や恥ずかしさや気の毒さや、そうしたものが大きなわだかまり」(『佐藤春夫に与えて過去半生を語る書)』)に苦しんでおり、佐藤はその千代子夫人に同情し愛するようになる。そして谷崎は佐藤に千代子を譲ると宣言する。しかし土壇場でそれを撤回し、転居してしまった。激昂した佐藤は谷崎と絶交する。『秋刀魚の歌』はその時の詩である。その後二人は和解し、9年後佐藤は千代子と結婚する。この結婚は「細君譲渡事件」(1930年)として大きな話題となった。
 谷崎は自身のことを「幸い僕は、写実小説には興味がないから、モデルが分かるようなものを書きはしない」(『同上』)と記すが、千代子との不和の一因は、谷崎が千代子の妹の「セイ子」を恋したことによってであり、奔放な性格の「セイ子」は、『痴人の愛』のモデルとなっている。彼のほとんどの作品は、彼の遍歴と二重写しで、その認識との差異がきわめて面白い。『瘋癲老人日記』の「颯子」は義妹の嫁である「千萬子」がモデルだった。
谷崎が抱き続ける女性への憧憬と美意識、そして、その美への執着はグロテスクなほど美しい。

(地域情報誌cocogane 2024年9月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)


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