「蝶蝶は歌う 三浦環」おはなし
父と娘
牧之原市平田寺に、三浦環(たまき)をモデルにしたNHKの連ドラ「エール」の記念の歌碑がある。歌碑には『聲(せい)―鶯(うぐいす)は西や東へ舞ひつれどやはり嬉しき故郷の梅』と印されている。環は明治十七(1884)年、父猛甫(もうほ)と母登波(とわ)との間に東京芝で生まれた。父猛甫は、駿東郡下朝比奈村(御前崎市)で造り酒屋を経営していた。明治十四年上京、明治法律学校(明治大学)に入学し、卒業と共に、当時日本での最初の公証人試験にパスする。女性関係は絶えず、郷里の女性に5人の子を産ませ認知している。これらが原因で、両親は明治三二年、離婚。猛甫は離婚後も娘の環には何かと口を挟み、特に東京音楽学校への進学を、「西欧芸者」と反対した。母娘の必死の説得により、猛甫は自分が決めていた陸軍軍医藤井善一との結婚を条件に入学を許した。藤井は上海への赴任が決まっており、あわただしく仮祝言を行う。環16歳、結婚を隠して入学した。
自転車美人
「海老茶の袴に、房々としたみどりの黒髪に大きな蝶結びのリボンを風になびかせて走る」(田辺久之『考証 三浦環』)環を、モダン青年達が後を追いかける、その風景が話題となり、「自転車美人」と報道され、評判となる。美貌と共に色気が漂う環に連日ラブレターが舞い込む。その中には、滝廉太郎や山田耕作らもいた。
環の声楽の実力は群を抜いており、24歳の時には助教授に任命される。環の音楽活動は全国に広がり、更には、マネージャーとのスキャンダルも話題となり、藤井と離婚。明治四四年、欧化を急ぐ日本政府は、伊藤博文や渋沢栄一らの肝いりで帝国劇場が完成し、環は破格の待遇で迎えられた。環の歌声は国民の熱狂に迎えられ、その名声は全国にとどろく。 一方、環は26歳の時、スキャンダルとゴシップから逃れるため、父の書生であった医師の「三浦政太郎」と密かに仮祝言を挙げる。
歌姫誕生
大正三年、環は夫のベルリン留学に伴いドイツに出発する。しかし第一次世界大戦勃発により、二人は急遽、ベルリンからロンドンに渡った。政太郎はロンドン大学に学び、環はアルバートホールの音楽会で歌う機会を得た。そこでベルディの歌劇『リゴレット』を歌った環は、イギリス王室も参列する中、「美しい声とすばらしい芸術の持主」(『ロンドンタイムズ』)と絶賛される。以降オペラハウスでのオペラ『蝶々夫人』の主役に抜擢され、「マダムバタフライ」の栄誉を一身に浴びる。作曲家プッチーニも「私は貴方によって自分の描いた蝶々さんを現実のものとして見ることができた」と絶賛した。
更に、この年、アメリカのプロモーターと破格の契約を結び、夫婦はアメリカへ渡った。アメリカでも蝶々夫人は熱狂的に迎えられる。以来三〇年、環はアメリカを拠点に世界に羽ばたく。
夫成太郎はエール大学で学位を取った後、大正一〇年、単身帰国する。
世界的声楽家としての地歩を得た環は、一方では「恋から恋へ漂泊のお蝶夫人」(『東京朝日』)とゴシップが絶えることはなかった。昭和四年、夫政太郎の突然の死に際しても帰国することはなかった。こうしてマダムバタフライは二千回の公演を記録した。
晩年
昭和一〇年、環52歳、帰国。第二次世界大戦の足音が高まる中、環は休むことなく歌い続ける。昭和十九年には島田の秋野邸に滞在、当時の軍事工場での独唱会で歌っている。この年山中湖畔に疎開、その地に永住。
環は、戦後も歌い続けた。瀬戸内寂聴は記す。「深紅の地に金糸銀糸で派手な縫いとりをした打ち掛け姿」のお蝶さんは、まるで金魚の「蘭鋳(らんちゅう)」のようだった。しかし歌い出すと「声というより、それはもはや不思議な楽器だった」と。更に三島由紀夫は「白地に扇面つなぎの華美な大振袖、深紅の帯…その容姿はあまりにまばゆむ醜さだった。美しいとしか言いようのない醜さだった。」しかし「『ある晴れた日を』この人がうたうと、海の色がまざまざと浮かんできた。本当の海の霊が下りて来たのだ」(『蝶々』)と記す。昭和二一年、環死す。62歳だった。
晩年、山中湖畔で、朝の陽ざしの中、環が歌うと、小鳥たちは集まり、環の歌声に合わせて歌った、と伝えられる。
(地域情報誌cocogane 2023年8月号掲載)
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地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)
平田寺(静岡県牧之原市大江459)