身體との対話という自己流の氣功法
私はここ17年程、毎朝隣の公園で行っているルーティンがある。
それは何かというと、「身體との対話」である。
早朝の公園はとても気持ちがいいので、
余程の悪天候でない限り、
ほぼ毎日このルーティンをやっている。
この動作は、17年間で殆ど変わっていない。
傍からみれば、太極拳もどきの動作なのだが、
太極拳を習ったことはない。
最初は深呼吸とともにゆっくり片足立ちから
全身の骨格と筋肉を意識して
1歩あたり30秒ほどをかけて4歩進める。
この動作は17年前何となく、手探りで追求し、
「これが今のところ最も気持ちいい!」と
體と心が納得する落としどころとして導きだしたものだ。
ところで、何故、片足立ちからゆっくり歩を進めることを
やりだしたかというと、左右の脚の感覚のあまりの違いが
許せなかったからである。
手については、利き手というのがあるのは分かる。
何故なら、右利き者が多数であり、
社会はその多数派が過ごしやすいようにデザインされているからだ。
なので、右利き者は、より右手を用いていくし、
左利き者は、右利きに矯正しようと努力する。
しかし、「脚」については両手とは違い、
両脚ともまんべんなく使っているはずである。
例えば100歩歩いたら、左右50回ずつ前に出して地面を踏みしめて
後ろに動かすという動作を単調に繰り返しているはずだ。
だから、「利き脚ともう片方の脚」というものが元々あったとしても、
その身體意識の密度というのは、日常生活の中で均等化されていくと
考えている。
それにも関わらず、自分が片足立ちをやってみた時には、
その安定感にあまりの左右差があることに納得がいかなかったのだ。
人体は外見上左右対称に見えるが、心臓の位置といい、
左脳と右脳の機能の違いといい、内部的には左右非対称な構造
となっている。
とはいえ、私に関しては片足立ちをしたときの
あまりに左右の脚の感覚の密度の違いが大きすぎるように思えた。
地面を捉える足裏と指先、足首の力強さ、脚部と上半身を繋ぐ骨盤
との連結感覚などなど、左脚部のそれは、右側と比べると半分にも満たない
くらいだったのだ。
ところで、私は当時、両目の視力にも偏りがあった。
最初は両目とも1.0以上あったのだが、高校時代の部活中に左目に
物理的衝撃を受けて、それ以降、左目の視力は0.1になっていたのだ。
社会人になっても両目の視力は変わらなかった。
そんな中、17年前に片足立ち時の左右の脚部の感覚の違いへの違和感を
解消しようと思い立ち、このルーティンを編み出したのだが、
最初はなかなかこの左右差を解消できず、
もどかしく感じていたものだった。
それが、ある時ふと、
「この左右差を解消することよりも、
このもどかしさ自体を味わう方が面白いかも」と閃き、
目的を「左右差を面白がること」に変更したのだ。
そして、この目的意識によって、
「右側の感覚を左側にコピーする」といったアイデアも閃き、
それらを試していくうちに、その左右差を縮めていくことができたのだ。
そして開始から半年、
その年の健康診断に驚くべきことが起こった。
それは、何と、左目の視力が、0.6にまで回復していたのだ。
検査技師の方が、「去年は0.1でしたよね?本当に裸眼ですか?」
と怪しまれたほどだ。
この劇的な変化の要因としては、
この毎朝のルーティン以外に考えられなかった。
なぜならば、およそ20年近くも両目の視力は不変だったからだし、
そういえば、片足立ちを練習しだしてから、左半身の神経が充実していく
ような爽快感を味わうことがしばしばあったからだ。
ある時は、練習を終えて、自宅でくつろいでいると、
左半身がとても充実して、得も言われぬ快感を味わい、
「こういう気持ちよさがあるのか!」と驚いたこともあったのだ。
なので、この視力回復は、このルーティンによる
身體感覚の変化の賜物なのだと考えている。
このような体験で、
身體意識を充実させれば體の機能は回復できると確信したのだが、
長らく関心を持っていた「氣功」というものも、
身體意識の充実という点で共通するのではないかと仮定したのだ。
それ以降、毎朝のルーティンをやりながら、
どう動かせばより気持ちよさを感じるのか、
身體との対話を重ねるようにしてきたのである。
その結果、自分にとって考え得る最も気持ちいい動きとして、
現在のルーティンメニューに辿りついたのだ。
これは、科学的なやり方ではないかもしれない。
あくまでも、実証データは私一人であり、
私の感覚と経験だけが根拠だからである。
なので、これは私が自己流で編み出した
「自分自身を快適にするためのアート」だと
位置づけるのが妥当な気がする。
昔、高校の同窓会があり、そこで同席した医師となった同級生数名に
この体験と私の仮説を話してみたが、「医学的にはありえない」と
一蹴されてしまった。
なので、彼らのような「医学者という科学的立場」のものからすると、
エビデンスに欠ける民間療法のようなものだろう。
天邪鬼な私は、逆にそれで火がつき、
西洋医学的なアプローチとは真逆な東洋医学的な発想で
自分の健康を維持しようと努めてきた。
その中には30年間悩まされてきた花粉症の克服体験もある。
なので、私には相性のいいアートだと言えよう。
「エビデンスよりも仮説と実体験に基づく肚落ち」や
「データよりもアート」を重視する私のスタンスは、
そういった経緯から強化されていったのだと改めて認識している。
ただ、私のルーティンの科学的根拠や再現性の有無はともかく、
日常の中に「自分の身體と向き合い、対話する習慣」というのは、
誰にとっても害にはならないものだと考えている。
特に早朝の公園などはとても気持ちがいいので、
是非「身體との対話」の時間を愉しんでみてほしい。