自己肯定感には客観的な根拠は完全不要!

「自己肯定感」。

昨今不思議とこのワードを見聞きするようになり、
これまで漠然としか認識していなかったこのワードについて、
考えてみることにした。

今までは、「自己肯定感が高い人」というのは、
「自分を信じ続け、偉業を成し遂げた信念の人」
というイメージを持っていたのだが、

近年、有名人の自殺が相次ぐという痛ましい事件を見聞きするように
なったことで、

「何故、あんなに素晴らしい実績を残したあの人が何故自殺を?」

という強い疑問と共に、自殺というのは、究極の自己否定だと考えるならば、社会的な成功と自己肯定感は必ずしもリンクするわけではなさそうだ。

そして、逆に今のところ社会的成功要素に乏しい私が、
最近複数の人から「自己肯定感が高い」と言われるようになったので、
いよいよ「自己肯定感」というものが一体何なのか考えるように
なった次第である。

そういえば、かれこそ10年以上前から、

私は根拠なく、自分のことを町内(人口約2万人)で
上位5位以内に入れるくらい幸福度が高いと思い込んでいるが、
これは自己肯定感の高さも上位5位以内と言い換えられるのかもしれない。

じゃあ、何故、私はそんなに自己肯定感が高いのか?

それは10年以上前に考案した「時間価値創造理論」に則って、

「愉しむ」、「向き合う」、「活かす」

この3つを循環させて生きようと心掛けているからである。

突出した要素など何もなく、社会的な実績に乏しくとも、
人生を愉しむためにこの3つの循環を意識し実践しているだけ。

それが「まあ何とかなるだろう」という自己信頼、
自己肯定感に繋がっているのかなと。

一見、自分にとって不都合な、不快な出来事が起こっても、

向き合い方次第で、「愉しみの要素」に注意を向けることができることを
経験上知っているので、その前提で向き合ってみて、
案の定、自分を活かすヒントを見つけることができる。

この「愉しむ→向き合う→活かす」の循環を回すことで、
妙に自分のあり方に信頼感を高め、それが自己肯定感を
自分なりに高めることができているのではないかと考えている。

そう考えると私にとっては、
自己肯定感と幸福度はほぼイコールなものである。

ところで、私は「たのしむ」と言う時は、
「楽しむ」ではなく「愉しむ」という字を使うことに拘っている。

何故なら、「楽しむ」と「愉しむ」は似て非なるもの
だと考えているからである。

そこで、私なりに両者の定義をまとめてみると、以下のとおり。

◆「楽しむ」:
・与えられたことに対して喜びや快感を感じて満足する状態。
外向的な活動や娯楽に対する感じ方を表すことが多い。
その行為をしている間の一時的な感覚。

◆「愉しむ」:
・主に精神的な満足や深い喜びを感じる状態。
味わい深く何かを体験すること。
美的な感覚や文化教養的なものに触れる場合に用いることが多い。
その喜びが内在的なものであるというニュアンスも含む。

「愉しむ」という感覚は、自分で選ぶ裁量権が俄然大きく、
「愉しむ」を追求していくことで、
その自己基準を豊かにしていくことができるものである。

「楽しむ」は消費的だけど、「愉しむ」は内省的な感じ。

ところで、私は、猫がじっと目を瞑って気持ちよさげに香箱座りで寝ている姿が大好きだが、あれは「愉しむ」の一つの模範ではないかと考えている。

人間以外に師を見つけることも、
「愉しみ方を学ぶ」上で大事なことかもしれない。

こうして考えてみると、
自己肯定感(幸福度)を高めるうえで土台となるものは、
「愉しむ感覚」を育むことではないかと思う。

そして「自分にとっての愉しみ方」というものを心得て、
それを日々の中で隙あらば味わうという技まで会得すれば、
それはその人自身のアートにもなるだろう。

瞬間瞬間を「愉しむ」という自己流アートによって作品化していけば、
唯一無二のアーティストになれるだろう。

そうすれば、産みの苦しみはあれど幸福度は高められるのでは
ないだろうか。


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