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対話で探る「新しい科学」_質的リサーチャーとして背中を押してもらった本

「対話で探る『新しい科学』」(河合隼雄、講談社+α文庫、2001年刊)。
(1994年11月に三田出版会から刊行された『河合隼雄対話集』を、文庫収録にあたり改題、再編集されたもの)

2001年、刊行されてまもなくたまたま書店で見つけて「これは!」と期待と共に買い求めました。

「臨床心理学は科学か」「人間のことを研究する科学とは何か」をずっと問い続けてきた河合隼雄が、みずからの疑問を、日本を代表する7人の科学者にぶつけた!

と裏表紙に書かれていたのが気になったからだと思います。

7人の科学者との対談で構成されたこの本、中でも大変な熱量と共に舐めるように読んだのは、鶴見和子氏(1918―2006との対談パート。
鶴見和子氏は、社会学者で南方熊楠の研究で知られている学者さん。私は2001年当時、この本を読むまで南方熊楠のことをほとんど知らない状態ではありましたが、河合先生と鶴見氏の対談を読んで、南方への関心が大変に高まったと同時に、自分が質的リサーチャーとして大事にしたいと思っていたことが明確にとらえられた・再確認できたという思いが強いです。

以下、いくつか引用させていただきます。

鶴見:(南方は)自然の一部となって粘菌と格闘したということが、まさに曼荼羅なんです。自然そのものが曼荼羅であって、自然は全体的に把握しなければならない、一部をとってきていくら研究したってだめなんだということを自覚したのは、粘菌の研究をしたからだと思うんです。
・・・あらゆる違うものの中に共通点を見出すうえでは、粘菌との関係、つまり自然とのつきあい方がとても重要だったと思います。

河合:曼荼羅のアプローチで個人の関係を見るということが、結局は社会を見ていることになるということですか。
鶴見:そう思います。(個人史は記述は非常に細かくなるので)どこかで一般化しなくてはいけない。だけどそれは因果律による一般化ではないんです。・・・私の手法は、これだけの個人史をこのコンテキスト(文脈)の中でとるとまず決めて、そのコンテキストが起こった社会的状況やコモンファクター(公約数)はどういうふうになっているか、変化のプロセスはどういうなっているか…と見ていきます。そして、その全体を、「私」が一般化するわけです。調査の結果から意味をとるのは、つねに「私」なんです。
・・・誰がやっても同じ答えが出るということには、非常に違和感がありますね。私の方法論では、「私にはこういうふうに見えます」としかいえないんだもの。

鶴見:調査する相手が変わるとこちら側も変わるということ。研究をやっていくプロセスの中で、研究者自身が変わったいく。相手と私との関係の構造の中で調査をしているんです。・・・意味をつかむということがもともと非常に主観的なことでしょ。意味は客観的にはどこにもない。意味を読んでいるのは、あくまで「自分」なんですよ。

最後に引用した「意味をとるのはあくまで’自分’」というところ。
これ、質的リサーチャーで、しかもまだその入口にいるという人ほど、周囲の声を聞きすぎて、「一体どっち?何が正解?」と立ち止まってしまいがちなことではないかと思います。

私も2001年当時、
「この膨大なデータ(発言録)の海を前にして、一体どのように仮説を立ち上げていくのか?」
「その仮説を立ち上げた根拠が’私の見立て’で果たしていいのか」
「’私の見立て’で良いということになったら、その分析には客観性が存在しないということになるのか」
などなど、常に悶々としていたように思います。
この鶴見氏が言明したこと(「意味をつかむのはもともと非常に主観的なことである。意味を読んでいるのはあくまで’自分’である」)に、当時私は’感涙おさえがたし’の状況だったかもしれません。
「それでよかったんだ、そうでなきゃいけないんだ」と。

マーケティングリサーチのプロジェクトにおいて、あるプロセスで定性調査が必要となり、そこでフィールドワークをし、結果をまとめ分析し(意味をとり)、調査課題への答えとなるような結論とネクストステップへの示唆をまとめていきます。
このパートの重要な駒として私が関わっていて、大規模プロジェクトの肝ともいえる示唆部分を、果たして「私の’主観’」で練り上げていいのかとの思いが当時少なからずあったように思います。
「構築した結論・示唆は一点の曇りもないものとして結実させられた」と胸を張りつつも、表立って誰かから批判されるわけではないのですが「でも、これは私の主観といえば主観かも…」と、なぜか少し弱気になってしまう部分ではありました。

でも。

鶴見氏が「意味は客観的にはどこにもない。意味をとるのは常に(リサーチの主体である)私」と言ってくれたことで、むやみな自己卑下のようなものが跡形もなく消え去っていったのを覚えています。

質的リサーチにおいては、リサーチャー自身が「リサーチの道具」なわけです。
量的リサーチであれば「分析する本人の主観は傍において」が当たり前というかそうでなければならないということになると思います。
が、その対極にあるのが質的リサーチ。
リサーチャー自身の経験や見立て、直観、事前にインプットした先行研究のあれこれ、身近にいる調査対象者(対象となる事象)に親和性がある状態のもの・ことの分類・整理、そしてそもそものリサーチャー自身の世界の捉え方など、それを対比という意味でも相対化という意味でも、はたまた違和感のピックアップという意味でも、持ってるもの感じているもの思考法なんでもかんでも全てを総動員して「意味をとり、仮説を検証し、結論を導き出す」が正解なわけです。

そこが質的リサーチャーは「職人」扱いされることが多い所以でしょうね。自分の中にあるあれやこれやをブリコラージュ的に使うわけですから、一般化はできないし、全てをマニュアル化することは難しい。
「あ、あの考え方使えるかも」とか、「あ、友人Aのライフスタイルとの対比で考えることがより輪郭が浮かび上がることになりそうだ」などなどを引っ張り出して思考してみたり、「あ、やっぱ違うか」と引っ込めたり。
私はこの「意味をとっていく(見い出していく)」プロセスがとても好きです。
「今まだ世の中でカテゴライズされていないもの」と向き合っている感覚で、声なき声を代弁する感覚というか、早く見つけてほしいとうごめいていたものをするすると数珠つなぎで、茫洋とした海(樹海?原野?)から引っ張り出すような感じです。
「見つけたよ」とか「気づけたよ」とかそう声をかけたい気分。
(これらは主に商品開発の前段階で、「どんな人がどんなことを求めているのか」という非常にざっくりした状態でフィールドに入ったり、「○○な人は■■で満たされているのか」みたいな少しフォーカスされた状態で始まったり、というような時のパターンであることが多いです)

(たいていはさまざまな企業が関わっている秘匿性の高いものなので、何一つ具体的に述べることができず、わかりにくいのではないかと思います。すみません)

本の話に戻ります。
この鶴見氏との対談を中心として、他の6人の科学者との対談すべて、当時の私を大変勇気づけてくれました。

鶴見氏が「調査する相手が変わるとこちら側も変わるということ」と言っているように、対談相手が河合先生であるからこそのこの内容なんだと思っています。
私が非常に共感して感謝した鶴見氏の言葉は、河合先生に向かって発せられたものであり、河合先生というパーソナリティあっての対談だと感じます。
相手が違ったら、このお話は違う形・トーンになっていたことでしょう。

そういう相互関係性というのが対話であり、質的リサーチの現場で起こりうることであり、それが当然なのであると自信を持てたのも大きな収穫でした。

※今現在も分析フェーズになると「意味をとるのは私なんだから…」と呪文のように脳内で繰り返している自分がいて、「あれ、これっていつからそう思い始めたんだっけ…」となり、この本を数年ぶりに紐解いたのでした。


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