カルテ24:積極的ニヒリズムへの違和感

生きる意味は自分のような人間だけではなく誰もが考えると思うのですが、みんなどうやって紡ぎ出してるんでしょうか。

生きる意味の苦悩をいなす考えとしてよく聞くのが積極的ニヒリズム(能動的、楽観的ニヒリズム)がいいというもの。
ニーチェのいう「超人思想」のように「この世は無意味だ虚無だ。故に我々自身が価値を想像するのだ」という思想です。
あるいはサルトルの実存主義も広い意味で入るのかな。

しかし自分としてはこの積極的ニヒリズム、一種の罠があるというか、そんな感じがしてならないわけです。
この世が虚無だというならその超人が生み出した価値すら虚無であるはずで、その価値がエネルギーとなるならばその効果はそれを生み出した超人である自身の内にだけ。
言うなれば「幻」の同義語なわけです。

しかし自分の所感として幻の同義語である側面を蔑ろにして、ニヒリズムを説きながらその積極的ニヒリズムの有り様には価値をおいているような気がしてならないのです。
その幻という点において他人の思想に唯々諾々と救われること、最終的には薬物中毒がもたらす偽涅槃の快楽との違いというのは何なのか。

もし虚無を虚無として受け入れていないのが本質なのであればニヒリズムなど名乗らん方がよろしいと思うのです。
もしかしたら人間、というより精神が他の種より発達した動物としてのヒトってただそこに存在する(生きている)というのが耐えられないのではないかという気さえしてくるのです。

これを話ながらふと最近少しずつ読んでる「カフカ断片集(新潮社)」でこんな断片を思い出しました。

〔世界の素顔〕
家の外に出なければ、などということはない。
机にすわって、耳をすませるのだ。
いや、耳をすませることさえ、してはいけない。
ただ、待っているのだ。
いや、待つことさえしてはいけない。
じっと静かにひとりきりでいるのだ。
すると、世界が素顔をのぞかせる。
そうしないではいられないのだ。
おまえの前で、うっとりと身をくねらせる。


これには色んな解釈があると思うのですが、自分はこの断片に「本当にあるがままあるとはこういうことだ」ということを描写してるように感じました。

しかし何人がこれを貫き倒せるものでしょうか。
確か白い部屋に生存に最低限のものしか持ち込ませず実験対象を観察すると一週間以内に発狂する、あるいは幻覚・幻聴症状が出てくる実験があったと思いますが、これはきっとヒトの人生について同じことが言えるんではないかなと思います。

人生に意味はないと唱えながらも、その渦中に身をおくのならば、きっと白い部屋の中で幻聴でイヤーワームの比にはならないほど架空のBGMをその人物の精神の内で生み出したりするんでしょう。
自らの意思で音楽を紡ぎだせるのではなく、幻聴に頼ってでもしないと総体としての人間は壊れてしまうが正しいのかもしれません。
そしてそこが積極的ニヒリズムの一種の限界と欺瞞なんじゃないかと個人的には思います。


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