カルテ6:偽中庸

どうも私のような病気を持つ人間はものごとを白黒つけたがる特性があるというようなことを聞くのですが、白でも黒でもないグレーの領域探すという営みと似て非なるものが存在するのだと思います。

グレーの領域、つまり中間のものを目指すというのはアリストテレスの中庸や仏教系でいう中道などがありますが、こういうのはいわゆる可視光のスペクトラムのようにある事象に対して、ラジオのチューニングのように真ん中をつきつめる作業だとおもいます。いわゆる連続性というやつですね。アナログ的ともいう。

さて、こういうのに対して自分は居心地が悪い気持ちみたいなのを抱いてるんです。
というのもこの中庸とかを上手く付き合ってるかのように宣言しながら物事の連続性と向き合ってるかのようで向き合ってない「偽中庸」のようなものが結構あるのではないかと。

場合によって「もう子供じゃないんだから」と「大人としての待遇を求めるのは早い」というのものを思春期の子どもに対してかけられる言葉のようなものを想像してもらえばわかりやすいでしょうか。

こういう事例は中庸とか中道とかではなく単なる「場合分け」であって、先の例の「ここぐらいかな?いやもうちょっと低周波かな?」という作業と同じにして良いのかという感触が結構あるような気がするんです。

その場その場で極端(恣意的な場合分け)か病的に恒常的に極端(自閉症的)かの違いしかないのではないかという気さえしてきます。
一応両極端な志向を直して行きたいなとは思ってはいるのですが、こういう考えにいたると世間一般の言う「程々」も呪術廻戦でいう"偽のゴール"ではないかという観念がどうしてもぬぐえなくなってしまいますね。

それともうひとつ、かくいう自分も病気というには健常と異常の宙ぶらりんなところがあるのかもしれないなと思うのですが、しばしば「どちらかに振りきれてくれればどんだけ分かりやすいやりようがあったろうか」と思います。
これもいわゆる中庸とか中間とかそういうものなのかもですけど、もしこれが本当の中間とやらに近いと仮定するならば真の中庸とは今すぐにでも手放したい代物なのかもしれない。そんな気がします。

もののけ姫のモロの君が「娘は人間にも成りきれぬ、山犬にも成りきれぬ」と苦い想いを吐露するシーンしかり、進撃の巨人のライナーが兵士と戦士に挟まれて苦しむシーンしかり、振りきれぬ故の苦悩が本来の中庸にはあるのではないかと。
世間のいう程々にはその側面がごっそり抜け落ちてるように思えてなりません。

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