「終わり」が来ることを、わかっておく。
とあるカフェの、閉店のお知らせが飛び込んできた。
自分にとって目指すべき指針のような、存在自体が救いのようなカフェの、閉店のお知らせ。「まさか」という気持ちと「そうだよね」が両方湧き出る不思議な感覚。
あの湖のほとりにある、静かなカフェ。おしゃべりも、写真を撮ることも歓迎されない、ただ「今ここ」を味わうための場所。
まさか、無くなってしまうなんて。一度訪れて、またいつか行きたいと思いつつ、遠方なのでなかなか難しいこともわかっていたから、オンラインショップで珈琲豆を購入したりしていた。
一方で、憧れだからこそずっとSNSを見ていたから、心のどこかで「閉店してしまうかもな」とも思っていた。店主さんがつくりたい場所のカタチを考えると、そういう決断になるだろうという納得感もある。
寂しい気持ちもあるけれど、あの時このカフェに行けて良かったと、わたしの目指すべき光として存在してくれていて良かったと、心から思う。
わたしがこれから開く「一人で自分と向き合うための喫茶室」は、あきらかにそのカフェの影響を受けている。
そのカフェを訪れた当時24歳だったわたしは、それまでカフェと言えばざわざわとした忙しないチェーン店のイメージしかなかったから、旅行で北海道を訪れて、あのカフェに入った時の衝撃たるや。そこは静かに座ってコーヒーを飲んだり、本を読んだり、景色を眺めたりする人達が、ゆるやかに共に時を過ごす場所だったのだ。
「こういう場所を、わたしもつくりたい」
その想いは、確実にここで芽生えたものだと思う。
それからもずっと、そのカフェのInstagramの更新を楽しみに、というかもはや心の支えにしていた。あの場所が存在すること、「一人のための場所」を守っている人がいること、自分の居場所だと感じられる場所があること。それらがすべて救いだった。
下記は、このカフェの店主さんが2023年に綴った想い。
わたしがやりたいことが、ドンピシャ言葉になっていて、この投稿は今でも何度も見返している。わたしもそうなのだ。自分が大切にしたいものを、具現化したいのだ。そして、それを大切にしたいと思っている誰かと一緒に、味わいたいの。
この世界のどこを見渡したって「ずっと続く」と保証されているものなんて一つもなくて。それなのにわたし達はどこか無意識に「ずっと」と思ってしまうところがある気がする。
お店はいつか閉まる日がくるし、人はいつか居なくなってしまうし、アーティストも作家もずっと創造し続けてくれるわけじゃない。推せる時に推すこと。会える時に会うこと。親孝行できる時にすること。行きたいと思ったら行くこと。大切なのは、シンプルなそれだけのこと。
思えばわたし自身、これから開くお店も、そして今5周年を迎えた『じぶんジカン』も、未来永劫続けていくなんて保証はまったくない。そりゃあもちろん、すぐに終わって欲しいなんて絶対に思っていないけれど、5年後、10年後のことなんてわからない。特にお店は、わたし達の中でイメージできているのはせいぜい数年後までで、その先もずっと営業をしているかどうかはわからない(だからもし行ってみたいと思ってくださったのなら、そう思った時にぜひ)。
「いつか終わりがくる」というのは、何かの終わりに触れることで、リアリティを持って実感できるような気がする。
自分ではない誰かの営みについては、終わりのタイミングについてどうこう言うことはできない。だから「いつか終わりがくるものだ」と思って、せめて自分の「好き」という気持ちや、大切に思っている気持ちはなるべく頻繁に伝えるようにしてる。その体現として、近所の好きな飲食店に足繁く通ったり、遠方で行けない店ならばオンラインショップで買い物をしたり、それもできない時はせめてSNSの投稿に「いいね」を押したり。
それでも終わりはいつかやって来るものだから、その時に後悔しないように。十分「好きだ」と伝えられたと、自分が思えるように。
おわり
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運営している「じぶんジカン」では、自分と向きあう時間をつくるノートをお届けしています。もっと心地よく自分を生きるための一歩目に、よかったらどうぞ。