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「興亜計画」 シルクロードからレイルロードへ。


日露戦争にちろせんそう終結しゅうけつ

朝鮮半島領有ちょうせんはんとうりょうゆう目論もくろむロシア帝国ていこく対峙たいじした明治めいじ三十七八年さんじゅうしちはちねん戦役せんえき日露戦争にちろせんそう」が、明治めいじ38年(1905年)9月4日、ポーツマス条約締結ていけつにより終結しゅうけつしました。

がつ午後ごご御前會議ごぜんかいぎ結果けっか、いよいよ日露開戦にちろかいせん決定けっていした。
その樞密院すうみついん議長ぎちょう伊藤いとう博文ひろふみこうは、靈南坂れいなんざか官舎かんしゃ金子かねこ堅太郎けんたろうだんんで
「いよいよ日露にちろ國交こっこう斷絶だんぜつむなきにいたつた。きみ御苦労ごくろうだがすぐ米國べいこくつてもらたい。」
突然とつぜん依頼いらいに、金子男かねこだん愕然がくぜんとしてると、伊藤公いとうこう憂色ゆうしょくあふおももちなお言ひいいけた。
確實かくじつ勝算しょうさんはないが、露西亞ろしや壓迫あっぱくたいして、こといたつてはこくうんしてたたかねばならぬ。きみさいわ大統領だいとうりょうルーズベエルトとはかねて懇意こんいなかだから、米國べいこくわたつて大統領だいとうりょう我國わがくに立場たちばをよろしくつうじてもらたい。
そして戰爭中せんそうちゅう同國どうこく滞在たいざいして、日本にほんたいする米國べいこく與論よろんおおい有利ゆうりみちびいてもらたい。」

陸軍省つはもの編輯部 編『日露戦役の思ひ出 : 史談插話』,つはもの発行所,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション

大東亜だいとうあ戦争せんそうとはことなり日露戦争にちろせんそうでは、伊藤いとう博文ひろぶみによって、明治めいじ37年(1904年)2月6日の開戦前かいせんまえに、アメリカ合衆国がっしゅうこくルーズベルトだい統領とうりょうしたしかった金子かねこ堅太郎けんたろう男爵だんしゃく渡米とべいさせ、終戦交渉しゅうせんこうしょうろうを取ってもらうさくこうじていました。

その結果けっか、日本有利ゆうり条約締結じょうやくていけつとなり、朝鮮半島の優越権ゆうえつけん満州まんしゅう経営権けいえいけんを手に入れることが出来ました。

しかし、日露戦争にちろせんそう戦死者せんししゃ戦傷者せんしょうしゃ日清にっしん戦争せんそうではなく、戦死者数せんししゃすう約8万4千人、戦傷者数せんしょうしゃすう14万3千人となっていました。
また戦費せんぴもかさみ、現在げんざい金額きんがくにして2ちょう6000億円おくえんついやしていました。その費用ひよう支払しはらいのために増税ぞうぜいおこなわれるなど、日本経済にほんけいざいにもふかいダメージをあたえました。※国立公文書館アジア歴史資料センター「日露戦争特別展Ⅱ」

この日露戦争にちろせんそう終結しゅうけつ前後ぜんご伊藤博文いとうひろぶみ経済人けいざいじん渋沢しぶさわ栄一えいいち大倉おおくら喜八郎きはちろうや、後藤ごとう新平しんぺいなどによって、今後こんご日本経済にほんけいざい発展はってん目指めざしたある計画がられていました。

次は伊藤博文いとうひろぶみが残こした日露戦争にちろせんそう当時の経済けいざいじんへの発言はつげんになります。
かなり長いものですが、どのような考えで計画がられていかを知っていただく最良さいりょうのものです。ご一読いちどくください。


國家存亡こっかそんぼうときさいしての金融業者きんゆうぎょうしゃ責任せきにん

諸君しょくんわたし今晩こんばん來賓らいひん一人ひとりかぞられましたが、おおくの意思いし代表だいひょうして御話おはなしもうすといよう勇氣ゆうきりませぬ。
しかもにせきれっせられて諸君しょくんは、日本國にほんこく財政ざいせい經濟けいざい社會しゃかい主宰しゅさいするところ人物じんぶつなりとおも

主宰しゅさいといはたしてあたるやいなぞんじませぬが、たしかに財政ざいせい經濟けいざい社會しゃかい消長しょうちょうかんすることを、あるい誘導ゆうどうあるい警戒けいかいする權力けんりょくつてらる諸君しょくんなりとみとめる。

わたし諸君しょくん事業じぎょうかんして所見しょけん御話おはなもううな經驗けいけんのある人間にんげんでありませぬから、ただ今日こんにち時局じきょくいて方面ほうめんよりして諸君しょくん御注意ごちゅうい喚起かんきし、なおわが赤心せきしんのあるところ披瀝ひれきしたいとおもます。

今日こんにち如何いかなるときであるか。我々われわれここ諸君しょくん來賓らいひんとしてかいしてるにかからず、國家こっか如何いかであるか。國家こっか原素げんそたる國民こくみんげて、國家こっか運命うんめい關係かんけいする戰爭せんそう前岸ぜんがんおい繼續けいぞくしつるのである。

しかして國家こっか存亡そんぼうすなわ個人こじん安危あんきげてこの戰爭せんそうめに犠牲ぎせいきょうさなければならぬ。
この前岸ぜんがんおいては我軍人わがぐんじん生命せいめい如何いか危檢きけんひんし、その生命せいめい如何いかうしなその熱血ねっけつ如何いかそそがれてるかもれぬ。

海軍かいぐんではニ三艘にさんそう軍艦ぐんかん沈沒ちんぼつして、そのふねのりんで戰死せんしをしたもの家族かぞくこの訃音ふいんきいいまうれいしずものいくらあるかれぬではないか。そう今日こんにち遭遇そうぐうして相互そうご三鞭酒さんぺんちゅうかたむけて笑談しょうだんするうらに、我軍人わがぐんじん如何いかなるこころもっきつあるかとことをかんがなければならぬであろう。

わたしがいまでもない、列席れっせき諸君しょくんみなわれどうじょう同感どうかんであるとことはあえうたがぬ。先日せんじつ總理大臣そうりだいじん官舎かんしゃおい御話おはなししたとおり、彼等かれらをして後顧こうこうれいなからしめねばならぬ。

われ彼等かれらたいして、日本國にほんこく々家こっかこころよせるあと御請合おうけあいもうすとうて彼等かれらした。尚ほなお此上このうえさらこころよねとうてさなければならぬ。

假令たとえ親戚朋友しんせきほうゆう關係かんけいはなくても、一國いっこくして以上いじょう親戚兄弟しんせききょうだいおなことである。
これむけ諸君しょくん如何いかなる同情どうじょうせらるか。しかしてわれ對抗たいこうするところてき如何いかなるものであるか。

地理的ちりてきろんじたら世界せかい七分ななぶんいちりょうするこくである。人口じんこう多寡たか一億いちおく四十萬よんじゅうまん有餘ゆうよおさめてつて、日本國にほんこく三倍さんばいする。
我等われら強敵きょうてき雌雄しゆうあらそざることざるの境遇きょうぐうさいし、諸君しょくん盡力じんりょく軍隊ぐんたいをして後顧こうこうれいなからしめんことを希望きぼうするのである。

國家存亡こっかそんぼうときさいしての金融業者きんゆうぎょうしゃ責任せきにん

そもそこの戰爭せんそうたる、人種的じんしゅてきまた宗教的しゅうきょうてき戰爭せんそうにあらずして、わが獨立どくりつ主持しゅじせんとするためむをざるにでたるものである。
この大方針だいほうしん根據こんきょとするところ文明ぶんめい主義しゅぎ何處迄どこまで貫徹かんてつうとあらそうてるのである。
みずか退縮たいしゅく固有こゆう小日本しょうにほんもっあまんじて世界せかい生存せいぞんうとおもたら、この戰爭せんそうおこはずがなかつた。

ひと小兒しょうにより段々だんだん成長せいちょうしてちょうじてきたれば智識ちしきしょう發達はったつもしてるのであるから、一人ひとり一生涯いっしょうがいおい變化へんかすること非常ひじょうなものである。國家こっかもまたしかりであって、すすまざれば退しりぞくとことわざもある。いま世界せかいすすまずしてとまればほかすすことになる。

日本にほん今年ことし神武天皇じんむてんのう即位そくい以來いらい二千にせん五百ごひゃく六十ろくじゅう四年よねんである。この長年月ちょうねんげつあいだ國家こっか安危あんき存亡そんぼう大患たいかん遭遇そうぐうしたこと幾度いくどあつたか。

歷史れきしひもといればあやうかつたこと蒙古人もうこじん來襲らいしゅうぐらいのもので、其他そのほかには存亡そんぼうかんするほど大事故だいじこかつた。
秀吉ひでよし少許しょうきょのいたづらを朝鮮ちょうせんにしたことはあるが、これをエライ大事件だいじけんとはない。

如何いかんとなればその當時とうじわれたい明國みんこく朝鮮ちょうせん今日こんにちごと武器ぶきつてらぬ。
列國れっこく今日こんにちごと世界せかい場裡じょうりたち競爭きょうそうする時代じだいでもなかつた。
しからば今日こんにち日本國にほんこく創造そうぞう以來いらいはじめてそうぐうする千古未曾有せんこみぞうう大事故だいじこかんがる。

ひと尚ほなおおのれ主義しゅぎ遂行すいこうするがため生死せいし存亡そんぼうするごとくにまたしからざるをない。
今日こんにちいくさけてたならば日本國にほんこく畏縮いしゅくしてほかなかつた。畏縮いしゅくしたら東洋とうよう一隅いちぐうける一小國いちしょうこくたるにぎない。

露國ろこくをしてその政略せいりゃく極東きょくとうだんにせしめたならば、滿州まんしゅう朝鮮ちょうせん勿論もちろんことわが日本にほんまた露國ろこく命令めいれいけなければならぬことになる。はたしてしからば日本國にほんこく獨立どくりつおよび發達はったつこの戰爭せんそうめしむることが出來できなかつたのである。

我々われわれかくごと卑屈ひくつはたしてあまんじたか。此事このことついては外交がいこう當局とうきょく其人そのひとがあるから、自分じぶん牛耳ぎゅうじつてしたことではない。
自分じぶんわずかその相談そうだん傍觀ぼうかん位地いちにあるけれども、くにうれうえおい如何いかにもそれに同意どうい出來できない。

國家存亡こっかそんぼうときさいしての金融業者きんゆうぎょうしゃ責任せきにん

この戰爭せんそう死生存亡しせいそんぼう關係かんけいする、いなむし國家こっか存亡そんぼう關係かんけいする事柄ことがらであると萬々ままりつも、めるほうよろしいと天皇てんのう建言けんげんすることも出來できず、また當局者とうきょくしゃむかつてこと出來できなかつた。

しかるべく國家こっか恥辱ちじょくけざる範圍はんいおい戰爭せんそうけたいとい希望きぼう最後さいごいたまでつてつたが、つい成功せいこうしなかつた。
しかして希望きぼうせざる不幸ふこうなる戰爭せんそうるにいたつた。

まだ世界せかい文明ぶんめい進化しんかには最上さいじょうする所謂いわゆるかみ人間にんげん社會しゃかい直接ちょくせつ支配しはいすることはあられてぬから、貴様きさまなり貴様きさまなりと裁判さいばんはない、ゆえてんうったほかはないと、ここ干戈かんかうった勝敗しょうはいけっせんとしてるのが今日こんにち事態じたいである。

我々われわれみずかしんずるところもっなり、みずか生存せいぞんするの理由りゆうくのごとくならざるをぬとつて、今日こんにちてんうったその存亡そんぼう勝敗しょうはいしてる。
しかしてこの存亡そんぼう勝敗しょうはいてんうったある國家こっか元素げんそたる國民こくみんは、この存亡そんぼうため戰地せんちおいてドンドン熱血ねっけつそそいでにつある。

是等これら人間にんげんたいして御互おたがいおのみずかぬると決心けっしんもっ充分じゅうぶん同情どうじょうせないとことがあつては、一國いっこく同胞どうほう感情かんじょうとしても國家こっか感情かんじょうとしても、義務的ぎむてき道徳的どうとくてきおいまぬわけである。

しからば諸君しょくん今日こんにちこれたいして貢獻こうけんされなければならない、これかつ同情どうじょうひょうせられなくてはならぬとときあたって、ふか諸君しょくん考慮こうりょのぞみたいことはことである。

わたし内國債ないこくさいとか外國債がいこくさいとか區別くべつ今日きょうろんずるのではない。
我々われわれ人道じんどうすなわちヒューマニテー、プリンシップル・ヲブ・シビリゼーションすなわ文明ぶんめい區域くいき這入はいつて我々われわれ相當そうとうべき權利けんり保護ほごして競爭きょうそう場裡じょうりおいてそれを進歩しんぽさせねばならぬ。

この主義しゅぎため世界せかい如何いかなる同情どうじょうわがくにひょうしてるかとことについふか諸君しょくん考慮こうりょわずらさなければならぬ。

國家存亡こっかそんぼうときさいしての金融業者きんゆうぎょうしゃ責任せきにん

ひと新聞しんぶん雑誌ざっしおい同情どうじょうひょうせられてるのみでない。昨今さっこん英國えいこくおい募集ぼしゅうされたる公債こうさい状況じょうきょう如何いかがであるか。
とく北米ほくべい合衆國がっしゅうこくおい募集ぼしゅうされたるところ公債こうさい状況じょうきょう如何いかがであるか。

日本國にほんこく露國ろこくとはたがい自分じぶんいえかれるまでも競爭きょうそううとして、實際じっさいおのれいえけるかもれぬと決心けっしんして、この主義しゅぎためすすみつある。

しかるたけかせぬため前岸ぜんがんおいたたかところ兵士へいしこの兵士へいしをして勇氣ゆうき阻喪そそうすることなからしめ、彼等かれら目的もくてきたっしてわが國家こっか生存せいぞんまったくするめにてんうったその勝敗しょうはいけっせんとするのであるが、けるかもれぬとことはそのうちふくんでらなければならぬ。つことがはじめからわかつてれば戰爭せんそういのである。

それほど決心けっしんをして危檢きけん境遇きょうぐう日本にほんたいして、世界せかい如何いかなる同情どうじょうひょうしてるか。この戰爭せんそうかしたくないとこころがなければ何者なにものこれかねとうずるか。

利息りそく高下こうげ些細ささい問題もんだいではない。公債こうさいたいして、英國えいこくおいては三十倍さんじゅうばい申込もうしこみがあり、米國べいこくおいては五倍ごばい申込もうしこみがあつた。
日本國にほんこく主義しゅぎ同情どうじょうをよせてるのである。

同情どうじょうむかつてわたし滿腔まんこう感謝かんしゃをしてる。しからば諸君しょくんはどうぢや。諸君しょくんうちには非常ひじょう財産家ざいさんかもあらう。
あるいまた資産しさん集合しゅうごうしたるひとより信用しんようけて委托いたくされ、責任せきにんうてその財力ざいりょく支配しはいし、あるい實業じつぎょうためこれ放用ほうようあるい金融きんゆう社會しゃかいためときれを吸収きゅうしゅうとき放資ほうしするひともあらう。

此等これら金融きんゆう社會しゃかい支配しはい操縦そうじゅうせらるもの責任せきにん重大じゅうだいなるは、もとよりろんたぬ。
經濟けいざい金融きんゆうじょう權力けんりょくゆうするもの國家こっか運命うんめい支配しはいする政府せいふとは、如何いか不人望ふじんぼうであらうが、掌中しょうちゅう實權じっけんることを如何いかんともすることができない。
これ諸君しょくんとも相謀あいはかつてしかして全體ぜんたい目的もくてきたる日本國にほんこく何處どこまでも安全あんぜん進行しんこうせねばならぬ。

區區くくたる感情かんじょう異動いどうもっその進歩しんぽ防遏ぼうあつあたごときことあつては、全岸ぜんがんおいはたらきつある人間にんげん如何いかなる感覺かんかくおこすであらうか。彼等かれらもとよりけっしてるから、何分なにぶん御頼おたのもうすの一言ひとことほかなかろう。

人々ひとびとにしてたましいあるものとしたら、諸君しょくんこのかん充分じゅうぶん盡力じんりょくしなければ彼等かれら亡魂ぼうこんなが天壌てんじょう瞑目めいもくすることは出來できぬであらう。

ゆえ諸君しょくん今日こんにちおいてはそのところ考慮こうりょされねばならぬ、この安危あんき存亡そんぼうかかところ第一だいいちりくかいぐんであり、れをよろしきに取扱とりあつかものは政府せいふである、してこれ供給きょうきゅうおうずるのは資本しほんある經濟社會けいざいしゃかいである、むし經濟社會けいざいしゃかい支配しはい操縦そうじゅうする銀行家ぎんこうか諸君しょくんであると。

その抑揚よくよう操縦そうじゅういたつてはもとより自分じぶん實驗じっけんもない。そのみちちょうじてらぬから諸君しょくんかつて御勸告ごかんこくする資格しかくはない。
それは諸君しょくん眼力がんりきそんするところである。

一方いっぽうおいては國家こっか供給きょうきゅうおうじ、一方いっぽうおいては實業じつぎょう社會しゃかい伸張しんちょうせねばならぬ。
いく戰爭せんそうがあるからとつても、實業じつぎょう放擲ほうてきしてよろしいとものではない。

ひと一日いちにちなくてつものではない。一日いちにち事業じぎょうなくしてつものではない。
ゆえそのかんおいその操縦そうじゅうよろしくし、適當てきとうなる程度ていどおいてすることはただ諸君しょくん當局者とうきょくしゃはかつて、この時局じきょくおい適當てきとう處置しょちほどこされんことをまで希望きぼうしてまぬのである。

明治めいじ三十七年 五月 二十日 東京銀行集會所しゅうかいじょいて
伊藤公全集第二巻より


大東亜共栄圏だいとうあきょうえいけん構想こうそうより前の「興亜計画こうあけいかく


最後さいごまで戦争せんそうによる解決かいけつけようとしていた伊藤いとう博文ひろぶみ
不幸ふこうにも戦場せんじょうくなっていった人たちや、おくり出した家族かぞくおもいをむねに、この政治家せいじかによってえがかれた戦後せんご政策せいさくは、欧米列強おうべいれっきょうとの直接的ちょくせつてき武力ぶりょく衝突しょうとつけながら、日本経済にほんけいざい発展はってんみちびいていこうというものでした。

東洋人とうようじんである日本人も、西欧人せいおうじん基本的きほんてき道徳どうとく共有きょうゆう出来ることを理解りかいしてもらい、ヨーロッパ諸国しょこくやアジア諸国しょこくとの協調きょうちょう関係かんけいきずき、世界の同情どうじょううしなうことなく、日本の国力こくりょく官民一体かんみんいったいとなって高めていく」

これが「興亜計画こうあけいかく」の基本きほん姿勢しせいでした。

具体的ぐたいてきには、明治維新めいじいしん手本てほん過去かこ日本に先端せんたん文化をもたらしたアジア諸国しょこく近代化きんだいか手伝てつだい、見返みかえりに地下ちか資源しげん開発権かいはつけん港湾こうわん使用権しようけんなどを長期間ちょうきかん貸与たいよしてもらいながら、必要ひつような鉄道を敷設ふせつして最終的さいしゅうてき大陸たいりくっかじょうでつなぐ環状かんじょう鉄道てつどうを作ろうとしていました。

西(中東・インド・中国・朝鮮)から東(日本)

古代こだいシルクロード(きぬみちに代わる現代げんだいレイルロード(てつみちによる東西とうざい文明ぶんめい結合けつごう。これによって、ひとものかねながれを活性化かっせいかするという、いのちうばいになる植民地しょくみんち争奪戦そうだつせんにはたよらない経済振興策けいざいしんこうさくでした。

欧亜連絡鉄道計画図

伊藤いとう博文ひろぶみ存命中ぞんめいちゅうどこまで計画がめられていたかはさだかではありませんが、日本の大陸たいりく鉄道てつどう規格きかくへの適応てきおう路線ろせん選定せんていやそのための現場げんば視察しさつなどが必要ひつようなため、明治後半めいじこうはんの計画が実現可能じつげんかのうなものとしてに出るまでに、30年以上かかっていました。

じつはこの大谷光瑞おおたにこうずいの名でのこ歐亜おうあ連絡鉄道れんらくてつどう計画図けいかくずまったく同じものを見ていたのが、子供時代の私の父でした。
時期じき昭和しょうわ13年(1938年)後半こうはんから昭和しょうわ14年(1939年)前半ぜんはん京城けいじょう急遽きゅうきょもどされるまでのあいだで、場所は朝鮮半島の江原道こうげんどうもうけられた朝鮮総督府ちょうせんそうとくふ鉄道局てつどうきょく江陵こうりょう建設事務所けんせつじむしょになります。

朝鮮総督府ちょうせんそうとくふおよび所属官署しょぞくかんしょ職員録しょくいんろく 昭和しょうわ13年(1938年)

朝鮮総督府ちょうせんそうとくふおよび所属官署しょぞくかんしょ職員録しょくいんろく昭和しょうわ13年(1938年)」の祖父そふの名の上やとなりに朝鮮人の書記官名しょきかんめいがありますが、日本人と朝鮮人は一緒いっしょに仕事をするなかでした。

官吏かんり役人やくにん)も階級社会かいきゅうしゃかいのため、等級とうきゅうが高い朝鮮人官吏かんりは下の階級かいきゅうの日本人官吏かんりや、工事こうじかかわる建設会社けんせつがいしゃ社員しゃいん作業員さぎょういんたいして指示しじ命令めいれいを出せました。

いまだに、併合時代へいごうじだいに朝鮮人が日本人に無差別むさべつころされていたり、強制連行きょうせいれんこうされていたかのような発信はっしんをする人間がいますが、それは悪意あくいあるウソです。

事務所じむしょといっても民家みんかげたもので、土間どま部分ぶぶん事務机じむづくえ製図台せいずだいが置かれ、建物おくいた部分ぶぶんにはゴザがかれていたそうです。そのゴザの上には火鉢ひばちが置かれ、やかんで湯をかし昼食ちゅうしょく休憩時きゅうけいじにお茶を入れていました。

祖父そふ豊田とよだ靖国やすくに江原道こうげんどうへの配属はいぞく理由りゆう後日ごじつ説明せつめいしていきますが、この事務所じむしょに父が顔を出したさい火鉢ひばちわきにどけていたで地図をひろげていたそうです。

そして祖父そふふくめた鉄道てつどう書記官しょきかんたちが楽しそうに、今後こんごどこに鉄道をいていくか、地図に線路せんろくわえながらそれぞれ意見いけんっていたということでした。

外国航路がいこくこうろ計画図けいかくず

鉄道だけではなく、船舶せんぱくによる外国航路がいこくこうろ開拓かいたくも計画されていました。

到底とうてい大谷おおたに光瑞こうずい一人で情報じょうほう収集しゅうしゅう分析ぶんせき計画けいかく立案りつあんが出来るわけではなく、南満州みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ朝鮮総督府ちょうせんそうとくふ鉄道局てつどうきょくの人間たちがふか関与かんよしていました。
そのため父も地図を見たり、話しを聞く機会きかいめぐまれたのだと思われます。

朝鮮海峡線ちょうせんかいきょうせん隧道計画ずいどうけいかく

山口県下関しものせきから朝鮮半島の釜山ふざんまで海底かいていトンネルでつなぐ計画も、この時代からられていたものでした。

昭和時代しょうわじだい本計画ほんけいかくでは、大阪や東京で製造せいぞうされた武器ぶき弾薬だんやく大量たいりょう貨車かしゃ積載せきさい密閉みっぺいほどこして大陸たいりく日本軍にほんぐん施設しせつまで運搬うんぱん
その、しかるべきタイミングで植民地しょくみんちからの独立運動どくりつうんどうを戦う勢力せいりょくにも提供ていきょう
植民地しょくみんち宗主国そうしゅこくであるアメリカやイギリス、フランスなどをかくらんする、という日本軍の調略ちょうりゃくわさり、海底かいていトンネル計画が実行じっこう計画としてがっていたとのことでした。

本航路ほんこうろわが帝国ていこく頸動脈けいどうみゃくなり。きゅう日本と朝鮮および満州まんしゅう北支那きたしな連接れんせつせるものにして將來永久しょうらいえいきゅうにその乗客は増加するとも減少せず。
ただこの海峡かいきょう隧道ずいどう穿うがち完成する時期にたっせば乗客の乗船はほとんど減少すといえども、これが完成は少なくとも十年以後にあり。
これが竣工しゅんこうまではこの海峡かいきょう連絡れんらく絶對的ぜったい船舶せんぱくによらざるべからず。

朝鮮海峡線ちょうせんかいきょうせん隧道ずいどう計画けいかく

大谷おおたに光瑞こうずい隧道ずいどう海底かいていトンネル)が短期間たんきかんで出来るかのように書いていますが、父の話では祖父そふたち現場げんばの人間は、当時とうじ技術ぎじゅつ莫大ばくだい建設費用けんせつひようかんがえたときに、自分たちが生きているあいだ無理むりだろうと話していたそうです。

大雑把おおざっぱ紹介しょうかいになりましたが、これが中国が2013年に提唱ていしょうしたシルクロード経済けいざいけん構想こうそう一帯いったい一路いちろ」より70年以上いじょうまえに、日本が具体ぐたいてきな計画としてまとめていたものになります。 

今さら指摘してきするまでもありませんが、そのトランプ政権下せいけんかでアメリカの対中国たいちゅうごく姿勢しせいは大きく変化へんかしました。

そして、ちょうどこの文章ぶんしょうを書いているころ、訪日ほうにちしていた中国人が靖国神社やすくにじんじゃ落書らくがきをした問題発生はっせいしました。
そしていつもどおり、中国政府から靖国神社やすくにじんじゃ侵略戦争しんりゃくせんそう象徴しょうちょうとの主張しゅちょうが出されました。

おそらく、日本政府もいつもどおりに遺憾いかん表明ひょうめいして終わるのでしょう。
あるいは保守ほしゅ名乗なのる政治家がガスのため強めの主張しゅちょうでもするのかもしれません。

しかし、昭和しょうわ60年(1985年)の「靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい問題もんだいで、外地がいちから引揚ひきあげた日本人の声に耳をさず、しっかりとした事実関係じじつかんけい調査ちょうさをした上で対応たいおうをしなかった日本国が、あの時代とくらべて国力こくりょくがここまで落ちた状態じょうたいで何かをすることはないでしょう。

靖国神社やすくにじんじゃの名をもって大正天皇たいしょうてんのう大御心おおみこころ(天皇の意思いし)にしたがって任務にんむたっていた祖父そふ豊田とよだ靖国やすくに

靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい問題もんだい」が作られ、ニュースで取り上げられるたびに不快ふかいかんをあらわにしていた父や伯母おばせっしてきた私としては、二人ともくなっていて本当によかったと思っています。

さわいだところでどうせ何もしない、何も出来ない。そんな意思もない。
いつものことなのですから。

京城けいじょう(ソウル)龍山りゅうざん西本願寺にしほんがんじ

本願寺出張所より見たる京城全景

西本願寺にしほんがんじだい22だい宗主そうしゅ大谷光瑞おおたにこうずい
彼自身かれじしん西本願寺にしほんがんじも日本の朝鮮半島ちょうせんはんとう政策せいさく密接みっせつかかわっていました。

本願寺出張所より見たる京城全景

明治めいじ39年(1906年)当時の京城けいじょう(ソウル)の風景ふうけいです。左下は川で洗濯せんたくをする朝鮮婦人ちょうせんふじんです。

京城けいじょう元町小学校もとまちしょうがっこう

父たちが終戦しゅうせんまでかよっていた京城けいじょう(ソウル)元町小学校もとまちしょうがっこう
そのすぐとなり京城けいじょう龍山りゅうざん西本願寺にしほんがんじでした。

明治めいじ39年(1906年)11月17日、京城けいじょう龍山りゅうざん西本願寺にしほんがんじ開部式かいぶしき
それはちょうど嘉仁よしひと親王しんのう大正天皇たいしょうてんのう)の訪韓ほうかん前年ぜんねんのことでした。※地図の紫色むらさきいろ寺院じいん

本日はここまでになります。お付き合いありがとうございました。


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