「興亜計画」 シルクロードからレイルロードへ。
日露戦争終結。
朝鮮半島領有を目論むロシア帝国と対峙した明治三十七八年の戦役「日露戦争」が、明治38年(1905年)9月4日、ポーツマス条約締結により終結しました。
大東亜戦争とは異なり日露戦争では、伊藤博文によって、明治37年(1904年)2月6日の開戦前に、アメリカ合衆国ルーズベルト大統領と親しかった金子堅太郎男爵を渡米させ、終戦交渉の労を取ってもらう策を講じていました。
その結果、日本有利な条約締結となり、朝鮮半島の優越権や満州の経営権を手に入れることが出来ました。
しかし、日露戦争の戦死者・戦傷者は日清戦争の比ではなく、戦死者数約8万4千人、戦傷者数14万3千人となっていました。
また戦費もかさみ、現在の金額にして2兆6000億円を費やしていました。その費用支払いのために増税が行われるなど、日本経済にも深いダメージを与えました。※国立公文書館アジア歴史資料センター「日露戦争特別展Ⅱ」
この日露戦争終結前後に伊藤博文や経済人の渋沢栄一、大倉喜八郎や、後藤新平などによって、今後の日本経済の発展を目指したある計画が練られていました。
次は伊藤博文が残こした日露戦争当時の経済人への発言になります。
かなり長いものですが、どのような考えで計画が練られていかを知っていただく最良のものです。ご一読ください。
國家存亡の秋に際しての金融業者の責任1
諸君。私も今晩來賓の一人に數へられましたが、多くの意思を代表して御話を申すといふ様な勇氣は有りませぬ。
併し重もに此の席に列せられて居る諸君は、日本國の財政經濟社會を主宰する所の人物なりと思ふ。
主宰といふ語が果して當るや否や存じませぬが、確かに財政經濟社會の消長に關することを、或は誘導し或は警戒する權力を持つて居らるゝ諸君なりと認める。
私は諸君の事業に關して所見を御話し申すやうな經驗のある人間でありませぬから、只今日の時局に就いて他の方面よりして諸君の御注意を喚起し、尚は我赤心のある處を披瀝したいと思ひます。
今日は如何なる時であるか。我々は茲に諸君の來賓として會して居るに拘はらず、國家は如何であるか。國家の原素たる國民を擧げて、國家の運命に關係する戰爭を前岸に於て繼續しつゝ有るのである。
而して國家の存亡則ち個人の安危は擧げて此戰爭の爲めに犠牲に供さなければならぬ。
此前岸に於ては我軍人の生命は如何に危檢に瀕し、その生命は如何に失はれ其熱血は如何に注がれて居るかも知れぬ。
海軍ではニ三艘の軍艦が沈沒して、其船に乗込んで戰死をした者の家族等は此訃音を聞て今愁に沈む者が幾らあるか知れぬではないか。そう云ふ今日に遭遇して相互に三鞭酒を傾けて笑談する裏に、我軍人等は如何なる心を以て死に就きつゝあるかと云ふことを考へなければならぬであろう。
私がいふ迄もない、列席の諸君は皆我と同情同感であると云ふことは敢て疑はぬ。先日總理大臣の官舎に於て御話した通り、彼等をして後顧の憂なからしめねばならぬ。
我等は彼等に對して、日本國々家の爲め快く死せる後は御請合申すと云うて彼等を出した。尚ほ此上更に快く死ねと云うて出さなければならぬ。
假令親戚朋友の關係はなくても、一國を成して居る以上は親戚兄弟も同じ事である。
是に向て諸君は如何なる同情を寄せらるゝか。而して我に對抗する處の敵は如何なるものであるか。
地理的に論じたら世界の七分の一を領する露國である。人口の多寡も一億四十萬有餘を収めて居つて、日本國に三倍する。
我等は此の強敵と雌雄を爭はざる事を得ざるの境遇に際し、諸君の盡力に依り軍隊をして後顧の憂なからしめんことを希望するのである。
國家存亡の秋に際しての金融業者の責任2
抑も此戰爭たる、人種的又 は宗教的戰爭にあらずして、我獨立を主持せんとする爲に已むを得ざるに出でたるものである。
此大方針の根據とする所の文明主義を何處迄も貫徹しやうと爭うて居るのである。
若し自ら退縮し固有の小日本を以て甘んじて世界に生存しやうと思ふたら、此戰爭は起る筈がなかつた。
人も小兒より段々成長して長じて來れば智識も生じ發達もして來るのであるから、一人一生涯に於て變化する事は非常なものである。國家もまた然りであって、進まざれば退くと云ふ諺もある。今の世界は進まずして止れば他が進む事になる。
日本も今年は神武天皇即位以來二千五百六十四年である。此長年月の間に國家安危存亡の大患に遭遇した事は幾度あつたか。
歷史を繙て見れば危うかつた事は蒙古人來襲位のもので、其他には存亡に關する程の大事故は無かつた。
秀吉が少許のいたづらを朝鮮にしたことはあるが、是をエライ大事件とは見ない。
如何となれば其當時我に對し明國や朝鮮は今日の如き武器を有つて居らぬ。
列國が今日の如く世界場裡に立て競爭する時代でもなかつた。
然らば今日は日本國創造以來初めて遭遇する千古未曾有の大事故と考へる。
人も尚ほ己の主義を遂行するが爲に生死存亡する如く國亦然らざるを得ない。
若し今日の戰を避けて居たならば日本國は畏縮して仕舞ふの外なかつた。畏縮したら東洋の一隅に於ける一小國たるに過ぎない。
若し露國をして其政略を極東に壇にせしめたならば、滿州朝鮮は勿論の事、我日本も亦露國の命令を受けなければならぬ事になる。果して然らば日本國の獨立及發達は此戰爭を遏めしむることが出來なかつたのである。
我々は斯の如き卑屈に果して甘んじ得たか。此事に就ては外交當局に其人があるから、自分で牛耳を取つて爲した事ではない。
自分は僅に其相談を受け傍觀の位地にあるけれども、國を憂ふる上に於て如何にもそれに同意は出來ない。
國家存亡の秋に際しての金融業者の責任3
此戰爭は死生存亡に關係する、否寧ろ國家の存亡に關係する事柄であると萬々知りつゝも、止める方が宜しいと天皇に建言することも出來ず、又當局者に向つて云ふ事も出來なかつた。
併し成るべく國家の恥辱を受けざる範圍に於て戰爭を避けたいといふ希望は最後に至る迄持つて居つたが、遂に成功しなかつた。
而して希望せざる不幸なる戰爭を見るに至つた。
まだ世界文明の進化には最上に位する所謂神が人間社會を直接に支配することは現はれて來ぬから、貴様は非なり貴様は是なりと云ふ裁判はない、故に天に訴ふる外はないと、茲に干戈に訴へて勝敗を決せんとして居るのが今日の事態である。
我々も自ら信ずる處を以て是なり、自ら生存するの理由斯くの如くならざるを得ぬと云つて、今日は天に訴へて其存亡勝敗を賭して居る。
而して此存亡勝敗を天に訴へつゝある國家の元素たる國民は、此存亡の爲に能く戰地に於てドンドン熱血を注いで死につゝある。
是等の人間に對して御互に己れ自ら死ぬると云ふ決心を以て充分の同情を寄せないと云ふことがあつては、一國同胞の感情としても國家の感情としても、義務的道徳的に於て濟まぬ譯である。
然らば諸君は今日之に對して貢獻されなければならない、之に向かつ同情を表せられなくてはならぬと云ふ時に當て、深く諸君の考慮を望みたいことは斯う云ふ事である。
私は内國債とか外國債とかさう云ふ區別を今日は論ずるのではない。
我々は人道則ちヒューマニテー、プリンシップル・ヲブ・シビリゼーション則ち文明の區域に這入つて我々の相當に受け得べき權利を保護して競爭場裡に於てそれを進歩させねばならぬ。
此主義の爲に世界は如何なる同情を我國に表して居るかと云ふことに就て深く諸君の考慮を煩はさなければならぬ。
國家存亡の秋に際しての金融業者の責任4
獨り新聞や雑誌に於て同情を表せられて居るのみでない。昨今英國に於て募集されたる公債の状況は如何であるか。
特に北米合衆國に於て募集されたる處の公債の状況は如何であるか。
日本國と露國とは互に自分の家を燒かれるまでも競爭しやうとして、實際己の家が燒けるかも知れぬと決心して、此主義の爲に進みつゝある。
併し成るたけ燒かせぬ爲に前岸に於て戰ふ處の兵士此兵士をして勇氣を阻喪することなからしめ、彼等の目的を達して我國家の生存を全くする爲めに天に訴へて其勝敗を決せんとするのであるが、負けるかも知れぬと云ふことは其内に含んで居らなければならぬ。勝つことが初めから分つて居れば戰爭は無いのである。
それ程の決心をして居る危檢の境遇に居る日本に對して、世界は如何なる同情を表して居るか。此戰爭に負かしたくないと云ふ心がなければ何者が之に金を投ずるか。
利息の高下と云ふやふな些細な問題ではない。我が公債に對して、英國に於ては三十倍の申込みがあり、米國に於ては五倍の申込があつた。
日本國の主義に同情をよせて居るのである。
此の同情に向つて私は滿腔の感謝をして居る。然らば諸君はどうぢや。諸君の内には非常の財産家もあらう。
或は又資産を集合したる人より信用を受けて委托され、責任を負うて其財力を支配し、或は實業の爲に之を放用し或は金融社會の爲に時に之れを吸収し時に放資する人もあらう。
此等の金融社會を支配し操縦せらるゝ者の責任の重大なるは、固より論を俟たぬ。
經濟金融上の權力を有する者と國家の運命を支配する政府とは、如何に不人望であらうが、其の掌中に實權の有ることを如何ともすることができない。
是は諸君と共に相謀つて而して全體目的たる日本國を何處までも安全に進行せねばならぬ。
區區たる感情の異動を以て其進歩に防遏を與へる如きことあつては、全岸に於て働きつゝある人間は如何なる感覺を興すであらうか。彼等は固より決して出て居るから、何分御頼み申すの一言ほかなかろう。
若し人々にして魂あるものとしたら、諸君が此間に充分盡力しなければ彼等の亡魂は長く天壌の間に瞑目することは出來ぬであらう。
故に諸君は今日に於ては能く其處に考慮されねばならぬ、此安危存亡の懸る所は第一陸海軍であり、之れを宜しきに取扱ふものは政府である、而して之が供給に應ずるのは資本ある經濟社會である、寧ろ經濟社會を支配操縦する銀行家諸君であると。
其抑揚操縦に至つては固より自分は實驗もない。其道に長じて居らぬから諸君に向かつて御勸告する資格はない。
それは諸君の眼力に存する處である。
一方に於ては國家の供給に應じ、一方に於ては實業社會を伸張せねばならぬ。
幾ら戰爭があるからと云つても、實業を放擲して宜しいと云ふものではない。
人は一日も食はなくて立つものではない。一日も事業なくして立つものではない。
故に其間に於て其操縦を宜しくし、適當なる程度に於てすることは只諸君が當局者と謀つて、此時局に於て適當の處置を施されんことを飽く迄希望して止まぬのである。
明治三十七年 五月 二十日 東京銀行集會所に於いて
伊藤公全集第二巻より
大東亜共栄圏構想より前の「興亜計画」
最後まで戦争による解決を避けようとしていた伊藤博文。
不幸にも戦場で亡くなっていった人たちや、送り出した家族の想いを胸に、この政治家によって描かれた戦後政策は、欧米列強との直接的な武力衝突を避けながら、日本経済の発展を導いていこうというものでした。
「東洋人である日本人も、西欧人と基本的道徳を共有出来ることを理解してもらい、ヨーロッパ諸国やアジア諸国との協調関係を築き、世界の同情を失うことなく、日本の国力を官民一体となって高めていく」
これが「興亜計画」の基本姿勢でした。
具体的には、「明治維新」を手本に過去日本に先端文化をもたらしたアジア諸国の近代化を手伝い、見返りに地下資源開発権や港湾使用権などを長期間貸与してもらいながら、必要な鉄道を敷設して最終的に大陸を輪っか状でつなぐ環状鉄道を作ろうとしていました。
古代のシルクロード(絹の道)に代わる現代のレイルロード(鉄の道)による東西文明の結合。これによって、人・物・金の流れを活性化するという、命の奪い合いになる植民地争奪戦には頼らない経済振興策でした。
伊藤博文存命中どこまで計画が詰められていたかは定かではありませんが、日本の大陸鉄道規格への適応、路線の選定やそのための現場視察などが必要なため、明治後半の計画が実現可能なものとして世に出るまでに、30年以上かかっていました。
実はこの大谷光瑞の名で残る「歐亜連絡鉄道計画図」と全く同じものを見ていたのが、子供時代の私の父でした。
時期は昭和13年(1938年)後半から昭和14年(1939年)前半、京城に急遽呼び戻されるまでの間で、場所は朝鮮半島の江原道に設けられた朝鮮総督府鉄道局江陵建設事務所になります。
「朝鮮総督府及所属官署職員録昭和13年(1938年)」の祖父の名の上や隣に朝鮮人の書記官名がありますが、日本人と朝鮮人は一緒に仕事をする仲でした。
官吏(役人)も階級社会のため、等級が高い朝鮮人官吏は下の階級の日本人官吏や、工事に関わる建設会社の社員・作業員に対して指示・命令を出せました。
未だに、併合時代に朝鮮人が日本人に無差別に殺されていたり、強制連行されていたかのような発信をする人間がいますが、それは悪意あるウソです。
事務所といっても民家を借り上げたもので、土間部分に事務机や製図台が置かれ、建物奥の板の間部分にはゴザが敷かれていたそうです。そのゴザの上には火鉢が置かれ、やかんで湯を沸かし昼食や休憩時にお茶を入れていました。
祖父豊田靖国の江原道への配属理由は後日説明していきますが、この事務所に父が顔を出した際に火鉢を脇にどけて板の間で地図を広げていたそうです。
そして祖父を含めた鉄道書記官たちが楽しそうに、今後どこに鉄道を敷いていくか、地図に線路を加えながらそれぞれ意見を述べ合っていたということでした。
鉄道だけではなく、船舶による外国航路開拓も計画されていました。
到底大谷光瑞一人で情報収集・分析・計画立案が出来るわけではなく、南満州鉄道株式会社や朝鮮総督府鉄道局の人間たちが深く関与していました。
そのため父も地図を見たり、話しを聞く機会に恵まれたのだと思われます。
山口県下関から朝鮮半島の釜山まで海底トンネルでつなぐ計画も、この時代から練られていたものでした。
昭和時代の本計画では、大阪や東京で製造された武器や弾薬を大量に貨車に積載、密閉を施して大陸の日本軍施設まで運搬。
その後、しかるべきタイミングで植民地からの独立運動を戦う勢力にも提供。
植民地宗主国であるアメリカやイギリス、フランスなどをかく乱する、という日本軍の調略も合わさり、海底トンネル計画が実行計画として上がっていたとのことでした。
大谷光瑞は隧道(海底トンネル)が短期間で出来るかのように書いていますが、父の話では祖父たち現場の人間は、当時の技術や莫大な建設費用を考えた時に、自分たちが生きている間は無理だろうと話していたそうです。
大雑把な紹介になりましたが、これが中国が2013年に提唱したシルクロード経済圏構想「一帯一路」より70年以上前に、日本が具体的な計画としてまとめていたものになります。
今さら指摘するまでもありませんが、その後トランプ政権下でアメリカの対中国の姿勢は大きく変化しました。
そして、ちょうどこの文章を書いているころ、訪日していた中国人が靖国神社に落書きをした問題が発生しました。
そしていつも通り、中国政府から「靖国神社は侵略戦争の象徴」との主張が出されました。
恐らく、日本政府もいつも通りに遺憾の意を表明して終わるのでしょう。
あるいは保守を名乗る政治家がガス抜きのため強めの主張でもするのかもしれません。
しかし、昭和60年(1985年)の「靖国神社参拝問題」で、外地から引揚げた日本人の声に耳を貸さず、しっかりとした事実関係の調査をした上で対応をしなかった日本国が、あの時代と比べて国力がここまで落ちた状態で何かをすることはないでしょう。
靖国神社の名をもって大正天皇の大御心(天皇の意思)に従って任務に当たっていた祖父豊田靖国。
「靖国神社参拝問題」が作られ、ニュースで取り上げられるたびに不快感をあらわにしていた父や伯母と接してきた私としては、二人とも亡くなっていて本当によかったと思っています。
騒いだところでどうせ何もしない、何も出来ない。そんな意思もない。
いつものことなのですから。
京城(ソウル)龍山西本願寺
西本願寺第22代宗主大谷光瑞。
彼自身も西本願寺も日本の朝鮮半島政策と密接に関わっていました。
明治39年(1906年)当時の京城(ソウル)の風景です。左下は川で洗濯をする朝鮮婦人です。
父たちが終戦まで通っていた京城(ソウル)元町小学校。
そのすぐ隣が京城龍山西本願寺でした。
明治39年(1906年)11月17日、京城龍山西本願寺開部式。
それはちょうど嘉仁親王(大正天皇)の訪韓前年のことでした。※地図の紫色が寺院。
本日はここまでになります。お付き合いありがとうございました。
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