イギリスの歴史(10)ピューリタン革命④王の処刑と共和国の誕生
こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊
今回は「イギリスの歴史シリーズ」の10回目です。
ピューリタン革命の最後です。
前回はこちら ↓
1,イングランド第二次内戦と議会軍の勝利
イングランドでの長老派に対する独立派の優位に伴い、
スコットランドでは契約派が分裂しました。
王チャールズ1世と和解を求めるグループが台頭し、
スコットランド軍と王が手を組んで、第二次内戦となります。
アイルランドのカトリック同盟は、王と和解を進めるグループとカトリック擁護派が対立し、分裂します。
王は和解派と手を組み、王はアイルランド兵をイングランドに侵攻させることが可能になりました。
王はイングランドのみならず、スコットランドやアイルランドの分裂につけこんで利用しようとしたのです。
(なんて王だ…😖💦)
イングランド議会軍の独立派と平等派は一時的に和解し、王軍を撃退します。
これにより議会軍の勝利が確実になりました。
スコットラインドとアイルランドは自立し、複合国家体制は解体の危機に瀕したままでした。
イングランドの独立派と平等派は、この時点ではブリテン国家の形成よりもイングランドの再建が目標でした。
2,王チャールズ1世の処刑
クロムウェルら独立派の敵は、
「王と、王を支えるスコットランド・アイルランドの勢力」でした。
そのため、独立派は王処刑へ進み、その後にスコットランドとアイルランドの征服に乗り出します。
王の裁判の前に、パンフレット等の宣伝戦で国王死刑の世論が形成されつつありました。
独立派の軍部は、長期議会の長老派議員の186名を追放します。
プライドのパージと呼ばれる軍事クーデターです 。
議会は独立派だけで構成される「ランプ議会」となりました。
議会は、王を裁くための高等裁判所を設置し、
王に「専制君主、反逆者、殺人者、国家に対する公敵」として死刑を宣告します。
王チャールズ1世は、公衆の面前にて斬首刑となりました…。
1649年、イングランド共和国の樹立を宣言し、
イングランドの「国王・貴族院・庶民院」という政治体制は消滅しました。
チャールズ1世は、スコットランドとアイルランドの国王でもあります。
しかし、王の処刑はイングランドだけで決定されたため、イングランドとスコットランド・アイルランドはさらに溝を深めました。
イングランド・スコットランド・アイルランドの「三王国戦争」はまだ終わっていないのです…。
ピューリタン革命の勝利者は、クロムウェル率いる独立派となりました。
その後、独立派は平等派の指導者を逮捕・平等派兵士の反乱を鎮圧して、独裁体制を樹立していきます…。
最後まで読んでいただきありがとうございます!😊
一応ここで、ピューリタン革命は終わりです。
なんだか暗い終わりですが…💦
イギリスの歴史はまだまだ続きます。
次回はクロムウェルの独裁政治です。
今回の発表や、江崎道朗先生・蔵研也先生のコメントは以下の動画にあります。ぜひ見てくださいね😆