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イギリスの歴史(8)ピューリタン革命②宗教問題と革命の加速

こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊

今回は「イギリスの歴史シリーズ」の8回目です。

ピューリタン革命の続きです。
今回はちょっと細かい内容です💦
イングランドだけでなく、スコットランド・アイルランドも不安定です💦

前回はこちらです↓


1,ピューリタン革命の発端、宗教問題でスコットランドで暴動


前王ジェームズ1世治下で、イングランドとスコットランドでは、宗教の棲み分けが決まっていました。

詳しくは以下を御覧ください😊


しかし、王チャールズ1世はスコットランドに国教会を強制します💦

これに対して、1637年にスコットランドの「エディンバラ」で反乱が勃発します。

☆マークが「エディンバラ」。シコットランドの首都でした。


スコットランドの長老教会主義の堅持と、王権からの教会の独立を誓った「国民契約」が成立し、30万人のスコットランド人が著名しました。
※ちなみに当時のスコットランドの人口は90万人だったそうです。

この人々は「契約派」と呼ばれます。

ただし契約派は、宗教政策に反対していましたが、王へ忠誠を誓う体裁を取っていました。

1639年、イングランドとスコットランドで第一次主教戦争が起きます。
しかし王チャールズ1世は戦費を調達できず、再挙までの時間稼ぎのため、スコットランドと和平を結びます。


1640年4月、王は戦費調達のために、11年ぶりに議会を開きますが、
議会は王の意向に従いませんでした。
わずか3週間で解散されため「短期議会」といいます。


王は財政難のため、東インド会社から後払いで品物を仕入れて売却したり、アイルランド議会からの援助で辛うじて軍を出しました。

1640年7月、第二次主教戦争が起こりますが、王軍はスコットランド軍に敗北します。
王は賠償金の支払のために、再度、議会を開かざるをえなくなりました。
この議会は11年間継続したので「長期議会」と呼ばれます。

「長期議会」

2,イングランドの「長期議会」

長期議会では、500人の庶民院議員が中心となり、
王の思惑に反して、以下のようなさまざまな改革を断行しました。
これはほぼ満場一致で決まっていきました。

~「長期議会」での改革~

■王側近であり専制政治の中心であったストラフォード伯と大主教ロードを処刑💦
※ストラフォード伯はアイルランドに強硬な支配を押し付け、
大主教ロードはスコットランドに国教会を押し付けた人物。
つまりこの2人は、チャールズ1世とともに複合国家体制の危機を招いた当事者でした。

■専制政治を阻止し、絶対王政を打破する諸立法を制定。
■少なくとも3年に一回の議会を召集すべきという三年議会法を制定。
議会の同意がない課税を禁止。
■弾圧機関を廃止。
■船舶税の不法性を宣言。

これらについては王は裁可に応じました。

しかし、枢密顧問官や宮廷官職の任免権という「国王大権」にまで議会は制限を課そうとしたため、王と議会の対立は更に深刻化🔥しました。

3,「スコットランド革命」

スコットランド契約派は、イングランド長期議会に乗じて、同様の要求を王に突きつけました。
国教会の主教制を廃止し、スコットランドの長老教会体制を完全復活させます。
行政も枢密院から主教を追放し、王権の介入を退け、スコットランドの自立化を進めました。
1院制のスコットランド議会では、レルドも選出し、三年議会法を定めました。

スコットランド主導によるイングランドとアイルランドの3国統合を求める動きもありました。
スコットランド契約派は「教会統合」の観点で、スコットランドの長老教会体制をモデルにしたブリテンの宗教的統一を追求します。
スコットランドはイングランドとは異なる立場から「ブリテン国家」の建設を目指し、イングランドのライバルとなりました。

以上のようなスコットランド契約派による議会・宗教・行政の改革の動きは、「スコットランド革命」とも言われます。

4,アイルランド反乱とカトリック同盟

1641年10月、前王ジェームズ1世が建設したアイルランドのアルスター植民地で、「アルスター反乱」が起こりました。

☆マークが「アルスター植民地」

土地・財産を没収されたゲール系カトリック教徒の怒りが爆発した事件です。
ゲール民族は、イングランドとスコットランドのプロテスタント入植者に報復し、アルスターを制圧します。
反乱はアイルランド各地へ広がりました。
各地のカトリック教徒が反乱に合流し、アイルランド・カトリックの全国聖職者会議は反乱を正当なものと認め、聖職者・貴族・都市代表からなる総評議会の設立を呼びかけました。

ここで、「カトリック同盟」が成立します。

カトリック同盟は立法機関と行政・司法機関・軍事権・外交権を持っており、イングランドからの独立を目指す臨時政府のようでした。

カトリック同盟は、王チャールズ1世への忠誠を誓いながらもカトリック信仰の擁護をかかげていましたが、これは困難なスローガンでした。
国教会にこだわるチャールズ1世との和平交渉に、アイルランドのカトリック聖職者が反対し、カトリック同盟はこの後、分裂していきます。


5,ピューリタン革命の加速

イングランドでは、アイルランド反乱の誇張されたニュースが乱れ飛びました。
例えば、 20~30万人のイングランド人とスコットランド人が大虐殺されたというデマ💦が流れました(実際は3000人でした)。

イングランドの反カトリック意識を刺激し、多くの地方がパニックになりました。
アイルランド人が侵攻したり、カトリック教徒が武装蜂起するという噂や、王が兵を用いて秩序維持を狙っているという噂が広まりました。

このようにピューリタン革命は、
スコットランドの暴動から始まり、アイルランド反乱で加速していきました。


最後まで読んでいただきありがとうございます!😊
今回はやや細かい内容でした💦
次は、いよいよクロムウェル登場です🔥

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