イギリスの歴史(12)軍事独裁の終焉と王政復古‼
こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊
今回は「イギリスの歴史シリーズ」の12回目です。
前回はこちら ↓
1,クロムウェルの対外戦争
この時期のイングランドの対外戦争は、
フランスのユグノーに代表されるプロテスタント勢力を援助し、
カトリック諸国に打撃を与えることが目標とされました。
植民地の拡大が目指され、1651年に航海法が制定されます。
この航海法は、ロンドン商人に支持されます。
イングランドとヨーロッパにおいて、オランダの中継貿易を排除したのです。
このため、クロムウェルは本来プロテスタントの同盟国であるオランダとの争いは望んでいませんでしたが、オランダとの英蘭戦争の引き金となります。
英蘭戦争は、世界商業の覇権をめぐる3度にわたる戦争で、
1654年に平和条約が締結されて終結します。
クロムウェルは、カトリック国スペインを「生まれながらの敵」(💦)と考え、英蘭戦争終結後の1655年にスペイン領ジャマイカを占領し、
英西戦争へ発展しました。
ジャマイカ等のカリブ海植民地には移民が入植し、黒人奴隷制も導入し砂糖プランテーションが発達します。
製品市場を拡大し、原料・食料供給地を獲得することに成功し、
のちの植民地帝国建設に貢献しました。
2,王政復古
軍事独裁色を強めるクロムウェルに対し、議会は君主政に復帰して自体を乗り越えようとしました。
1657年、議会はクロムウェルを王位につけようとしますが、拒否されます。
議会はクロムウェルを王位につけることで、クロムウェルの絶大な権力を制限したかったのです。
反対にクロムウェルは王位につくことで議会に縛られることを嫌がりました。
その後クロムウェルは死亡し、息子リチャードがプロテクターに就任しますが、混乱が続きます。
1659年リチャードがプロテクターを退き、プロテクター独裁政権は崩壊しました。
以降、王政復古へ向かいます。
事態は「時計の針を逆回しするかのように」進んでいきました。
ランプ議会が再召集されます。スコットランド軍司令官によって長期議会が再開されます。
長期議会が解散され、仮議会が召集され、
貴族院と庶民院という二院制が復活しました。
地方のジェントリとロンドン商人の多くはこの動きに協力しました。
このように、スチュアート朝の王政復古への道が開かれていきました。
1660年チャールズ2世は、国民の歓喜の声の中、亡命先のオランダからロンドンに帰還しました。
王政復古です。
これにより、1714年まで続く後期スチュアート朝が開始されます。
王政復古により、スコットランドとアイルランドは、イングランドとは別の議会を持つ独立国となりました。
王政復古は、革命前の状態に復帰するものではありませんでした。
王権は復活しましたが、封建的諸税や議会の同意のない課税はいっさい許されなくなったのです。
革命関係者の大赦、信仰の自由、革命中の土地移動の承認、軍隊への未払い給与の保証をした「ブレダ宣言」が発表されます。
王は貴族院と庶民院からなるイングランド議会の伝統を尊重しており、
革命初期の長期議会の諸改革もほぼ継承されました。
1679年、人身保護法により市民的自由(恣意的な逮捕や長期間の投獄を防ぐ)を保証しました。
1670年代には、ホイッグ(議会派)とトーリ(国王派)が誕生し、政党の起源となりました。
3,名誉革命の引き金へ
1670年、チャールズ2世はフランス国王ルイ14世とドーヴァーの密約を結びます。
これは、イングランドをカトリック国に戻す見返りに多額の裏金をルイから受け取る約束でした。
チャールズ2世は慎重だったため自身がカトリックだと口外せず、
段階的な政策を進め、1672年「信仰自由宣言」を発しますが、
議会はカトリックに好意的な王の動向を警戒し、宗教問題は王ではなく議会制定法によってのみ決定できるという採決を通過させます。
「審査法」も制定し、イングランドで公職につく者を国教徒に限定しました。
1685年、弟のジェームズ2世が即位しますが、国王大権を強化し、公然とカトリック化を進めたため、名誉革命の引き金となっていきます。
4,ピューリタン革命のまとめ
ここで、ピューリタン革命についてまとめます✨😊
イングランドでは、国教会と王の専制的支配に対抗し、
ピューリタンと議会に結集した人々が立ち上がり、
国王派と内戦となり、クロムウェル率いる独立派が勝利しました。
国王が処刑💦され、独立派が政権を掌握しました。
クロムウェルによる独裁政権となり、クロムウェルの死後も混乱は収まらず、王政復古となりました。
貴族院と庶民院の二院制が復活し、議会の力が強まりました。
王権は復活したが、封建的諸税や議会の同意のない課税はいっさい許されなくなりました。
ただし、毎年120万ポンドが議会から保証されました。
政治的・宗教的に、3王国が複合国家となり同質化されるという変化の過程でもありました。
スコットランドでは、国教会から脱却して契約派の長老国家体制が有力となりました。
アイルランドでは、カトリック地主の大量の土地がプロテスタントの手にわたり、19世紀初頭までカトリック差別の方針が貫かれたのです。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回は、「名誉革命」です!
また、今回のところの江崎道朗先生解説による保守自由主義学ぶ勉強会の動画は以下です。ぜひご覧ください。