抑圧型人間
何の意味もなく、noteを始めた。嘘だ。自分の感じ方や考えを、残しておきたいと思った。
私は「抑圧型人間」だ。
周りを気にして、自分の感想を無意識に押し込めていた。抑圧していた。
そのことに、最近ようやく気がついた。
この記事を読む人の中に、私の仲間がいたら嬉しい。
自分の感じ方を認識することは、難しい。
たとえ何かを感じ取ったとしても、周りの人の感じ方だの、くだらないプライドだのに邪魔されてしまう。
世間的評価の低い作品には、「おもしろい」と思いづらい。未熟な中学生が言うような感想しか持てず恥ずかしい。
感想ひとつ持つのにも、何かに抑圧されて苦しくなる。
抑圧を続けて続けて、いつの間にか自分の意見がなくなってしまう。というより、抑圧が無意識になりすぎてしまう。自分の、押し込めた本当の感じ方に、気がつかなくなってしまう。
そんな人間を、私は勝手に「抑圧型人間」と名付けた。
そうなってしまうのは、とても怖い。
自分が自分でなくなってしまったら、わざわざ肩書きだの義務だのを背負って生きるのがバカバカしくなる。
そんな漠然とした苦しさは、いつか爆発するように思えてならない。
感性の抑圧が爆発するのは、他人の意見に触れたときだ。
自分の力で考えて感じている人の意見。それは、自分への抑圧を告発する。
それは悪いことではない。寧ろ、いいことだ。なぜなら、漠然とした苦しさをなくすきっかけになるのだから。
抑圧型人間は、彼等の意見を聞いてギクリとする。そして、言いようのない感情を抱える。
好きで抑圧しているわけではないのに、なぜ告発されなければならないのか。こんな、苛立ちとも恐怖とも言えない自分勝手な感情。
抑圧型人間の多くは、これを自分勝手だと思わない。寧ろ強い人を指さして、声高に主張する。
自分勝手だ、加害者だ、と。
自分の意見を持っている人が幼少期に嫌われがちなのは、この「ギクリ」のせいなのかもしれない。
最近気づいたが、「自分」って自分ひとりじゃ成り立たない。
関わった人や、たまたま目にした意見。それを全部、無意識に吸収しているのが人間なのかもしれない。それらに受けた影響があって初めて、自分は自分になるのだ。
もちろん、作品を見た後に周りの影響を受けることも「自分」の構成要素のひとつである。
分かりづらいので、例え話を使おう。
何か映画を観て、「面白い」と感じたとする。
その映画は、世間でクソ映画と名高い作品だった。
そのとき、あなたはどうする。
ここで「自分の考え方は世間からズレている。合わせなければ」と感じた人は、紛れもない抑圧型人間だ。誰が見ても、失礼極まりない考え方である。
他人の評価が気になるというのは、そういうことだろう。それは悪いことではない。ほとんどの人にとって、当たり前のことだ。
しかしそれが分かったからといって、抑圧型人間の苦しさがなくなるわけではない。
私は抑圧型人間だ。だが、このことに気がついた。
だから、解決策を自分なりに模索してみたいと思う。
冒頭で述べたように、私がnoteを始めたのは自分の感じたことを残しておきたいと思ったからだ。
他の人の意見を見る前に、純粋な自分の意見に向き合いたいと思った。
しかし、自分の頭で考えるだけではまとまらない。自分の思考の手綱を握るのもまた、とても難しい。文章化は、その活動の一環である。
どうせ生きるなら、楽な方が良い。
これからは、本の感想や漫画の考察を、自分なりに書いていきたいと思う。