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犯された思考からの解放|霊的バトルフィールド②

私たちは悪魔や悪霊と戦う時、奴らがいるフィールドへの知識を知りませんでした。
クリスチャンが教会に行き、祈っても同じ過ちを繰り返してしまうのは敵の攻撃方法を知らなかったのです。
※これはクリスチャンが霊的に戦うための話です。

▼前回の話▼

今回は、悪魔が日々攻撃していたあなたの思考へのダメージと汚染された領域の確認と回復です。

「なかなか心が解放されない」
「失敗の思いが強い」
「恐れがあって前へ進めない」

上記が当てはまる方に良い知恵となります。
こちらを読めばイエスの差す光によって心が解放されていきます。まだ日本の書店にはない情報なので是非手にしてみてください。

さぁ神の戦士達よ!今すぐに神の知恵を取得して戦いにください!

悪魔が築いてきた思考の要塞

悪魔が第一行う占領場所はまずあなたの思考から始まります。

思考の領域は悪魔の攻撃場所としては打ってつけの場所であり、悪魔を負かすためには心の状態を変えなくていけません。

 あなたが人生プランを計画するようにサタンもあなたを滅ぼすための目的とし計画します。

その目的とは、私たちの教育や経験、教会の教義を通してキリストの生涯のある部分が真実でない、または私たちの場合に当てはまらないということを何とかして受け入れさせようとするものです。

 

自己解放をする

第一に解放は”心を謙虚し自分の状態を認める”ことです。

最初にお断りですが、ここの初めは柔和な気持ちで読んでいただきたいです。
これはあなたを怒らせるためではなく謙虚な姿勢で見直してもらいたい内容から書いております。

霊的に見れば悪からの解放への解決方法は、恐れの霊へ立ち向かい、縛り・恐れの砦が打ち壊されない限り解放されることはありません。
解放への一歩は、ここから悟るべきです。

まず、クリスチャンだからといって安心していないですか?
失礼なことを言ってしまいますが、あなたは悪魔に欺かれています。

多くのクリスチャンは聖霊がいるので「悪に惑わされることはない」と教えられてきました。実はこれが間違っていたこともあります。

「クリスチャンには聖霊がいるから惑わされることはない」というのが欺きとなっているからです。ここで簡単に自己欺瞞に陥っていた事に気づいたかもしれません。

つまり、クリスチャンになれば悪から欺かれることがないのだ!というのが欺きになっているのです。

ここでも「はぁ?何言ってるの?」と思う方もいるでしょう。それは自分自身が間違っていたと認められない石となっているのです。

例えばある言葉が歪んだ形で嘘と擦れ変わり信者の心に馴染めば、その人の考えや意見は石のように固くなり霊的なレベルでも(未熟でも)その欺かれた状態を維持しようとします。時間が経てば固くなり剥がれなくなります。まるで歯石のようです。

それが欺かれた状態が続けば、あらゆる種類の霊がその人自身の考えや歪んだ教義という鎧に守られていることを知るので、魂を徹底的に攻撃してくるのです。
悪による宗教の霊、宗教的な自己欺瞞の力を断ち切るのはかなり難しいのです。

なので、まず私たちが知り得る知識が間違っているかもしれない?という事実を確認しなくていけないのです。

自分が騙されている事に気づかないということがあり得ます。信仰の本質とは・・疑いの余地が与えないものだからです。

もし私たちがこの真理を受け入れないなら、どうやって自分の誤りを正すことができますか?
私たちの心の中で、イエス・キリストに委ねられない領域があるとすれば、そこは悪魔の攻撃を受けやすい領域です。

そのためにクリスチャンは、心を十字架につけられていない思考生活においてこそ、要塞を打ち壊すことが極めて重要なのです。

ですから、聖書で言う「心の謙遜」というものを得なければ本当の解放にならないのです。

もし、自分の中に神への反抗があるのならば、自分を守ったり弁解したりしてはいけません。

神が求めている事は、心を心底低く悔い改め、神が私たちを変えてくださるという信仰を持つことです。
パート1でも触れましたが、サタンは罪を食べているのです。


悔い改めが救いを生みます。悪の砦を打ち砕くには悔い改めから始まるのです。

 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。(マルコ6:12〜13)


心を苦しめている霊の解放は、悔い改めが解放に先立ちてば解放はしばしば他の領域の癒しにつながります。

いくら霊が去るように命じられても、その人の思考の構造が変わっていなければ、罪に対する間違った態度がその霊を再び迎え入れることになります。

そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。(ルカ2:35)

もしあなたが本当にイエス・キリストと共に歩むなら、あなたの思考プロセスの多くの領域が暴露されるでしょう。
ですが、あなたが悔い改めることができれば神から力が与えられるので砦が崩れ勝利が見えてきます

肉のあいつ

これは警告にはなりますが、あなたが聖霊に導かれた時。あなたの器である肉や悪魔がいる世界から「神が要求していることを聞かなくていいんだよ」「体が大事だから無視でいいよ」と指示が出るはずです。

あなたが戦っている悪魔というのはあなたの人生へのアクセス保護のため、あなたの思考を利用しています。
あなたの自身の罪を隠させることが悪の要塞を作る材料ともなっています。

なので、自分自身の問題が解決せず隠れたままで本質がない罪や欠点を打ち明けるようにと誘惑されるかもしれません。

私たちが人生で直面するすべての戦いは、御言葉をめぐるものであり、神の忠実さと誠実さの上に自分の人生を築けるかどうかということです。

神の武器を握り、神の武器を手にする

あなたが悪魔という敵と戦う時には武器が必要です。
それは悪魔の要塞を打ち壊す神から預かった力です。

もしあなたが奴らの戦い方に困惑しているのなら今の状況は無防備です。神から授かった武器の使い方がわからないとも言えるでしょう。

武器を握る前にあなたは神との関係を見つめ直し正常は関係へと戻さなければなりません。
神との関係を築くことで、あなたの人格と力がイエス・キリストの見姿となるからです。

敵の要塞

なぜ私たちが神の武器の取り方を知らなかったのか?ですが、それはあなたの心である思いに悪のオブジェクトが置かれているからです。
では、悪のオブジェクトを要塞としましょう。

スタートは要塞=敵が守っているものを壊すことから始まります

悪が築き上げた要塞とは、過去における自己中心的な生活こそが悪の要塞にとなっていることです。 

今も肉を満たす古い生活を守り抜くような間違った態度をとっていないでしょうか?

 悪霊が私たち信者の生活に頻繁に現れ、態度を占拠するという考えには賛成できないかもしれませんが、私たち一人ひとりが肉的な心を持っているし、神よりも自分を高く上げる思いが源になっていることは確実に認めなくてはいけません。

特に凶悪な敵の拠点地(城)が傲慢になる思考です。それこそ悪魔が個人の思考生活に影響を及ぼしていくことは間違いありません。

 わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。(Ⅱコリント10:3〜6)

悪魔の牙城は、神の知識を超えて高慢になる思考のことであり、それによって悪魔が個人の思考生活に安全な影響力を持つようになります。

これはホラー映画のような目に見えた霊の憑依の話をしているのではありません。

悪魔や悪霊というのは、聖霊がクリスチャンを霊に満たすと同様に奴等もその人の悪い霊で体と心を満たすのです。

悪魔は永遠にクリスチャンの思考を支配することはできませんが、悪魔はあなたの思考を所有することができます。もしあなたの思考が自己欺瞞や間違った教義があなたの思考を守っているのであれば、あなたの守られた思考システムは悪魔に支配されてしまう事になります。

なので、あなたが知らぬ間に悪魔に同調してしまった考えを悔い改める必要があります。
知っている人もいるかと思いますが、神に反対すればあなたの人生に悪魔の居場所が作られてしまうのです。

もしクリスチャンの生活の中に罪の習慣があるとすれば、その領域は悪魔の活動場所となっていることが予想できます。


罪の習慣はしばしば、信者から力と喜びを奪う霊の住処となり、その住処(または習慣)は悪の要塞となります。
つまり私たちは、敵を守る肉欲的な思考システム、神の砦を扱うことによって、悪魔に対処するのです。

 わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君(サタン)が来るからである。だが、彼(サタン)はわたしに対して、なんの力もない。(ヨハネ14:30)

私たちの心の砦が打ち破られたときは、私たちはまだ時々罪に陥るかもしれません。しかし、ここを知れば大きな勝利のうちに歩むことができるのです。そして、他の人々が救われるのを助けることができるようになるのです。

敵への攻略

敵への攻撃方法はみことばです。聖書は悪魔を倒すための膨大な武器倉庫とも言えるでしょう。

あなたが今みるべきところは悪魔が住む霊の世界なので、見えない霊の世界にはなりますが、サタンや悪魔は隠れていることに気づいていかないといけません。

マジックミラーのように相手は見えないことをいい事に笑う敵は、個人・教会・社会・地域・国家などの至る所思考を支配しています。

勝利には悪魔の要塞を壊さなければなりません。
また守りも必要で、こちらも反撃をされないように神の砦を建て敵から身を守ります

 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。(詩篇18:2)

主が私たちの砦になるときは、悪魔から守られます。
悪魔の何から守られるかと言うと「悪い思いに同調する」など悪魔の罪深い誘導から守られる事になります

敵からの攻撃に備え、御霊の武器で戦っていきましょう!

思考で固められた家

残念ながら既に悪魔は砦(活動拠点)を作っています。

その場所は、国や地域社会で個人や教会に影響を与えます。これが霊的目が開かれた人にとって違和感がある理由です。

この砦がある場所は、悪魔の思考パターンが潜伏しています。

 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。 (マタイ12:43-44)


汚れた霊の性質

あなたの思いを汚す汚れた霊の性質についてですが、肉体的ではない霊的なものを汚します。
そして汚れた霊は常に住処(休むことのできる家)を探して求めています。
霊は人間が住む場所を探して住むように、霊も生きており家を探すのです。

安心してください。真のクリスチャンの家にはイエスの霊が既にいるので悪魔が宿ることはありえないことを理解しましょう。

イエスは、人間の本性には実際に悪霊を受け入れ、それに一種の休息を与えることができる次元があることを明らかにしました。私たち人間の本性には霊が宿る「建材」となる側面があると思います。

人間の霊は聖霊の住処となるので実際、私たちが聖霊を内側に迎え入れれば敵の侵入を防ぐことができます。

人間の本性で邪悪なものと実質性質的に似ているのは、人格の次元である肉的な思考生活です。

汚れた霊は私たちの思考の仮面をかぶり、私たちの態度に身を隠して、私たちの生活に入り込みます。
私たちの十字架につけられていない思考や聖別されていない態度の中に汚れた霊は入り込みます。

解放を望む

解放とは、悪魔の領域へ向かいイエスの旗を完全に掲げることです。

私たちが救われる前というのは、私たちは悪魔の「邪魔にならない所有物」でしたが、クリスチャンになった時の話はこうです。

サタンは完全武装した「強い人」のように私たちの魂の家を悪が守っていた→そこに私たちを救われた主イエス・キリストという輝かしい「より強い者」がサタンを攻撃して制圧し、その武具を剥ぎ取ってくださった。こんな感じです。

イエスはこのように言われました。

 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」(マタイ12:45) 
 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。(ペテロ2:20)

この箇所は悪霊のしつこさを感じさせるメッセージでもありますが、霊的戦いではサタンが住んでいる場所に入りキリストの旗を完全に上げなければなりません。

つまり、あなたの心の中にサタンが好む思考生活を送ってしまう限り何度も何度もサタンの住処となっているのです。

勝利はキリストに委ねなければなりません。もしその人が拒否をしその事実を受けれずにいたら無理に解放ができないのです。

要は、しっかり心を完全に入れ替えろよ!決断しろよって話ですが。

なので肉体的な苦難の場合を除き、自分の思考生活をイエス・キリストに委ねようとしない人は解放ができないのです。

 強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。(ルカ11:21〜23)

悪魔の武具とは何か?

悪魔の武具=要塞(救いを遠ざける武器)とは、悪と一致する私たち自身の考え、態度、意見です。

パウロは聖書で砦(教会)と語りました。
 
確かに救われたことによって、私たちの認識や行動に影響を及ぼしている間違った考えや態度、つまり "牙城 "がすべて取り除かれたと思いますが再度確認すべきです。

確かにクリスチャンとなれば古いものは過ぎ去り新しいものに生まれ変えられてきました。
しかし、私たちがキリストの完全な力の中で歩むまでは、変化のプロセスが終わってはいないと思います

さて、「あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる」このパウロが、キリストの優しさ、寛大さをもって、あなたがたに勧める。わたしたちを肉に従って歩いているかのように思っている人々に対しては、わたしは勇敢に行動するつもりであるが、あなたがたの所では、どうか、そのような思いきったことをしないですむようでありたい。わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、(Ⅱコリント10:1〜4)

要塞を壊しにいく

私たちの戦いは悪の要塞である砦を壊すことです。

これは主に身をゆだね、悔い改めを通して主に同意して、戦いにおける継続的な成功の基盤に進めていきます。

まず、これらの要塞のいくつかを確認することです。
それは思いつきや時折の罪のことではないことを認識することが重要です。

私たちに最も影響を与える要塞は私たちの思考パターンに隠れているので、それが悪いものとも認識することができません。

イエスは汚れた霊が「安らぎ」を求めていることを明らかにしたことを思い出してください。

汚れた霊達は安息を求めています。
安息とは環境と調和です。
汚れた霊の安息とは(私たちの思考生活が不信仰、恐れ、あるいは習慣的な罪と一致しているとき)敵はこの事で安らぎを得るのです。

もちろん解放の過程では、しばしば内面的な葛藤や混乱が生じてしまいます。今もそうでしょう。

ですが安心してください。
これは拒否や困惑は良い兆候であり、個人の意志が自由になりたいと願っていることを示しています。

無信者である時イエスキリストを口で信仰告白をしなさいと聞いて「えっ?そんな口にも出したくない」と思っていませんでしたか?これが悪が表に出てきた瞬間であり、心に悪がいたからです。

正しいことは初めに拒絶があるものです。

イエス様を救い主と信じた今どうでしょう?平安じゃないですか?それは悪が出ていったのからです。

この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。(Ⅰペテロ5:9)

要塞の種類を確認し、悪の契約を破棄する

もし新しく変わるために初めに試みようと思った時、まずプライドの要塞が立ち尽くします。

要塞はいくつかに分けられています。

悪の要塞を壊し変えようと思っても、イエスに反抗する力が今の人生にとどまるために下記のことと戦いを挑む事になります。

  1. 不信仰

  2. 冷たい愛

  3. 恐れ

  4. プライド

  5. 赦せない心

  6. 欲望

  7. 貪欲

勘違いしてはいけないのは、クリスチャンになったからとはいえ安らぎはあるけど完全な者になれたのではありません。

パウロは聖書で、教会の権威・権力に対する「戦い」について話していますが
、あなたは今の以後心地よい人生にとどまることを求めるでしょう。

結局のところ、自分を甘くして簡単に許してしまうので私たちの生活で抑圧されている部分というものは見分けるのが困難です。

私たちの思考、態度、認識というのは、すぐに自分を正当化し弁護してしまうものです。

残念ですが、人は心の中で思うように、そのようになってしまうのです。

彼は心のうちで勘定する人のように、「食え、飲め」とあなたに言うけれども、その心はあなたに真実ではない。(箴言23:7)

私たちの本質は私たちの思考生活にあるので、解放が達成される前に、私たちは自分の必要性を正直に認めて間違っていたことを告白しなければなりません。

「全てが大丈夫よ!」って装うのはやめる必要だがあります。

最初に取り除きをしなきゃいけないのはプライドという砦です。

私たちが謙虚になり、助けを求めて、自分が解放を必要としていることを認めるまでは、決して要塞から解放されることはないからです。

自分が間違っていたと気づく

自分の誤りに気づくには、神の正しい基準や感覚、情報を自覚しなければなりません。

まず、基準をイエスに合わせていくのが答えです。

人間は昔から「人間とは何か?」というクエッションにぶつかっています。

ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。(ヘブル2:9)

ヘブル人への手紙の著者は、同じ問いに聖霊の霊感の元に「私たちは彼、すなわちイエスを見ます」と書いていました。

それはイエスが模範だったのです。

 心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。(エペソ4:23-24)。

イエス・キリストは単なる救い主ではなく、私たちをご自分の姿に変えてくださる内在者であり、輝かしい息子たちの一族に生まれた長子なのです。

なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。(ヘブル2:10)

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。(ローマ8:28-29)

私たちがイエスに屈服し、イエスのうちにとどまり、イエスのことば1つ1つが私たちの中にとどまる時にイエスはイエスのような命ではなく、まさにイエス自身の霊があなたに命をもたらしてくださるのです。

私たちの内に生きておられるキリストご自身が、神の永遠の目的であった『神に似せて人を造る』という目的が果たされていくのです。

そして、主イエスの臨在が私たちの中に現れることで

  • 私たちの戦いの武器が力強くなる

  • さらに私たちの言葉に権威が与えられる

といった具合に悪の要塞を打ち壊すことができるのです。

なので、あなたは、イエスの似姿と教えに適合しない考えや態度を客観的に見ることを知る必要があったのです。

間違った態度(思い)は十字架につけられなければなりません。

不信仰の砦からの解放(主の領域の拡大する)

悪魔の砦を破棄する時は、第二の砦として消滅させなければならないのは、不信仰の砦です。

私たちに主が来られるために、自分の中に道を切り開かなければなりません。

霊の力を上げるためには、主を招き、主の霊に吸収されること。そして主を信じる事で主の支配力が上がることで主の力が増します

主の力が嵩むと”主の愛、思い、願いが私たちの内側から溢れ出します。

例えば「キリスト教を拡張すると言うのは不可能だ!」というこの考え方は嘘です。それ以降の霊的成長を奪う行為になります。
私たちの心にかけた嘘の鎖は、私たちの人生から取り除かれなければなりません。

今何をすればいいのか?といえば、祈ることです。

聖霊を呼び起こし、心に招き祈るです。

 わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、((2コリント10:3〜5)

失敗の砦

砦とは思考でできた家ですが、失敗という砦があります。

古屋をイメージしてみてください。

「私は失敗した」「私はいつも罪を犯すから罪人なんだ」これが壁、床、天井となり、失敗の砦の「建材」となります。

 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、(Ⅱコリント10:5)

私たちの目標は、キリストの霊が私たちの魂に完全にアクセスできるようにすることであり、自分の思いを捕らえキリストの奴隷ならなければなりません。

失敗の砦に対処するために、私たちは悔い改めを自分の生き方にしなければなりません。

悔い改めとは、後悔するだけではなく「変化=考えを変えること」を用いらないといけません。

私たちの心の中にでは複数の誤った考えが渦巻いており”不信仰と失敗”という、いつでも手に入る干草を食べています。
「私はいつまでたっても罪人だ」「御霊に導かれて歩いてみたが、うまくいかなかった」という思いが、壁、床、天井となり、失敗の砦の「建材」となっているのです。

ここでの失敗の砦を崩壊するには、間違った思考を捕らえる必要があります。

わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(ピリピ4:13)


失敗に砦ができてしまう人と壊せる人の違いはこうです!

・失敗の砦に捕獲された信者→「失敗してしまったダメだ」
・失敗の砦を壊せる人→「私は失敗した。けど神から来るものであり変えてくださり、神は私を強くする」

前者は落ち込んだままになってしまいますが、後者は力強く宣言することができます!

失敗の砦で使える武器(みことば)を用意しました。

 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(第一ヨハネ1:9)

上記のみことばより信仰告白をしてみると楽になるはずです。なのでこのみことばを信仰告白に置き換えてみてください。

私達のイエスの血のおかげで、キリストの犠牲が私たち一人一人をキリストご自身と同じように清くするのです。

これで失敗の壁は消えます。

※このみことばを使い思考を変える=古い失敗思考パターンの破壊へとなります。

あなたが神の御言葉によって心にある霊を新たに更新し続けるなら、あなたはとてつもない力と平安のうちに歩み始めることができるのです。

 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。(ローマ8:29)

恐れの砦

何かに前進するために邪魔をする砦が恐怖の砦をお話しします。

  • 人前に出るのが恥ずかしい

  • 過去に嫌な思いをした

  • 拒絶されるのではないか?と考える

  • やらなきゃいけないのにできない

この上記の思考が恐怖で固められた家となり、この恐怖の砦を破壊しないといけません。

ちなみに神自身は、人を拘束することをしません。

恐らく、この恐怖の砦ができてしまった原因は過去の「心のない言葉」だったと思います。

人は自分を守る本能があるので批判される状況を避けます。

しかし、嫌な思いやトラウマがある人からすれば不公平に思えますが、イエス様は、私たちが人を赦すように、父も私たちを赦してくださると言われたことを思い出してください

恐れの砦の壊し方は愛の砦と変える事です。
悪魔の旗をすてイエスの十字架の旗を上げるのです。

あなたを傷つけた人の行動とあなたを傷つけたことに対するあなたの反応も同様に神の御心からかけ離れている事に気づいていく時です。

自分を傷つけた怒りと、また傷つくんじゃないか?という恐怖心で前に進めなくて苦しい時もあると思います。

この魂の解放は加害者を手放すこと=あなたを傷つけた人を解放し、赦すことによって、その魂の抑圧から解放されていくのです。

 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。(Ⅰヨハネ4:18)

もし、あなたがその過去の出来事を手放すことができれば、神はあなたの魂を人々に対するバランスのとれた健全な態度に回復させてくださいます。

恐れの砦は、愛の砦に取って代わられるのです。

私たちの完全な勝利とは、常にイエスで占領しなければならないのです。
これができればキリストはあなたの心からサタンの武具を取り除いてくださいます。アーメン。

 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。(マタイ12:44〜45)

 砦の確認方法。

砦の確認方法です。
どのくらいが悪魔に占領され、どのくらいイエスで占めているのか?を確認したくなると思います。

あなたの考え方で神への希望がある部分はイエスにより解放されており、絶望的な部分は悪の砦となっています。

私たちが作られた思考の整理をする


悪の要塞は、私たちが生まれてきた世界そのものです。

私たちのアイデンティーは、情報と経験(家庭での愛の量、文化的環境、仲間からの価値観、圧力、拒絶、知性、容姿)など幼少期から人生観で形成されます。

自分というものを探すために幼少期に注がれた言葉が私たちの本性に溶け込みます。例えば「先生に怒られ自分はできない。頭は悪いんだ」と思い込み、親に「いつになってもお前はダメなんだ」と言われ自分のダメさを思い込んでいる人も多くいると思います。

私たちは、他人からの批判や褒め言葉にとても敏感で不安になりやすい生き物になっています。
そういった、子供の頃からの他社の言葉や考え方で自分の思考パターンを構築しています。なので私たちの人生の意見は自分の意見しか見れないので正当化し自分の考えを守りたがります。

星座占いもあなたのアイデンティティを作り上げています。
星座の特徴「私の性格は生真面目で・・・」なんて決められた特徴や弱点に縛られます。

私達が持つべきアイデンティティ

私たちが目指す思考は、イエス・キリストの真理を求めます。

 弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。(ルカ6:40)

聖書の通り、イエスの行いをする必要があります。

私たちは父を行うをすることではなく、イエスの行いをすることです。

神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。(ヘブル13:7)

イエスは人を使って私たちを教えてくださいますが、私たちはその人が本当にキリストに適合していない場合は単なる人に従者することになります。
これ注意です!

私たちの目標は、イエス・キリストに、そしてイエス・キリストだけに従うことでなければなりません。
この唯一の目的を支持しないいかなる教えも、私たちを支配することを許してはなりません。

あなたが過去〜現在で行っている自分探しの旅において、私たちは自分が何であったかを神に明け渡さなければなりません。
なぜなら、私たちが自分の人生をイエスに渡さなければそれを見出すことはできないからです。

ご存知でしょうか?私たちがキリストの元へ行けば、私たちの性質や性格のすべては変わるように運命づけられています。

聖書は、神が私たちのために新しい心、新しい霊、新しい性質、そして究極的には、新しい名前さえも与えてくださったと教えています!

わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。(ヘブル8:10)

「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。(Ⅰコリント2:16)

それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(Ⅱコリント5:16〜17)

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。(黙示録2:17)
 

今思い出してください。
あなたが洗礼を受け新生した時、まさに神の霊を受け、その霊によってあなたは別の領域、つまり天の御国に生まれ変わったのです。

あなたの足はまだ地上ですが聖霊という乗り物を通して、あなたは神の御座に座っておられるイエス・キリストという実在の人物と結ばれているのです。

あなたの手足が胴体につながっているように、あなたの心は神の力につながっているのです。
あなたは決して一人ではありません。
キリストはいつもあなたとともにいます。

あなたの知性や外見も含めて、すべてが今、より良く変化する対象なのです。古い失敗、偏見、態度は消え去る運命にあり、新しい信仰と希望が日々あなたの中に育っているはずです。

このような素晴らしい新しい始まりをどのように達成するのでしょうか。
私たちは、キリストの霊を心に受けて力を与え、キリストの言葉を学んで私たちを導きます。私たちの中にイエスに似ていないものを見つけたら、すべて十字架につけます。

神がいる現実世界へいく

この世界は、結論と経験の砦があります。
現在の私たちは思考や意見が魂を支配している状況を認識する必要があります。

これが私たちの現実です。

しかし、神は御言葉にある「真理」を現実・定義しています。

私たちが神の現実へと移るにはイエスの言葉がドアであると知る必要があります。

イエスの教えすべての意味を合わせれば、私たちは神の国の現実を見出すことができるのです。

断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。(ローマ3:4)

神がここで何を教えているか?と言うと、個人的な経験が神の約束と一致しなければ、神は私たちを成形することを許さないのです。
私たちがキリストと似たものとならない限りいつまでも不完全なものなのです。

自分自身でみことばの成就ができないからと言って結論付け(神への信仰を捨ててはいけない)をしてはいけません。

例)「癒しを求めたからと言ったが癒されなかった」実際は→天地が過ぎ去るまでには備えてくださる。(これが神の現実です)
信仰とは、神を信じ続けることで解決ができるというもの。

私たちの人生を支配しているのは自分の経験なのか?神なのかを考えなくてはいけません。


間違った教会の砦

イエスは福音でこんな警告をしました。

そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。(マタイ24:4)

これは教会の牧師からでも”その人”に当てはまります

私たちは、神によって他の人に導かれることもありますが、神でない場合もありその人に惑わされないようにする必要があります。
この意見を言う相手がクリスチャンでさえもです。

見分け方ですが、どんなクリスチャン・預言者・教師・牧師に何度もお世話になっても、常に教義を確認する度に謙虚に主を尋ねなければなりません。

 わたしは今、三度目にあなたがたの所に行こうとしている。すべての事がらは、ふたりか三人の証人の証言によって確定する。(Ⅱコリント13:1)

常にイエスの声から確認する必要があります。


真の教師と言われる方でも間違った教義を伝えることがあります。
もし私たちが教えられていることが、キリストの愛・聖さ・力へと私たちを導かない、それがイエスのためにではなく、イエスを通してではないのなら、その教義は私たちを抑制し圧迫する要塞と変わってしまうのです。


私たちが惑わさないための最も安全な方法は、私たち自身が惑わされないようにすること=神に対して正直で、神の愛と御言葉を常に意識しなければなりません。


最後まで読んで頂きありがとうございます(๑>◡<๑)


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