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平凡な人生を送りたくなかった私が今思うこと
若い頃、平凡な人生を送りたくないという気持ちが人一倍強かった。
両親にも普通に愛され、幸せな子供時代だったと思うけど、学校を卒業して、就職、結婚、子育てという一般的な既定路線を歩むことはしたくない、と中学生の頃から漠然と思っていた。
自分の能力を過信していたわけでも何でもないけど、人とは違うエキサイティングな人生を送りたかった。
誰もが色々なストーリーを持っていて、唯一無二の人生を生きている、というのを今は理解できる。
ただ、実社会をTVや新聞を通してしか知らなかった子供の頃は、世の中に何らかの影響を与えられる人になりたい、と家族や友人に息巻いていた、と思う。
大人たちは話半分に聞いてくれていたのだろう。「絶対無理だよ」とは言わずに、微笑ましいこととして受け止め、応援してくれた。
子供時代から、単純で(よく言えば純粋で)、感化されやすかったため、「ウォーターゲート事件」について書かれた「大統領の陰謀」(All the President's Men)を読み、アメリカのメディアの影響力の大きさに憧れた。記者になりたい。
アメリカの大学院を卒業後、中学の時に抱いていた夢は、叶った。
記者時代は、日々、ニュースになりそうなことを追いかけ、そしてニュースに飛び込んでいった。そのため、世の中の中心にいるような錯覚に陥ることもあった。
社会を揺るがすような事件にかかわったことはなかったため、自分の記事がどれだけの影響を与えたかは、定かではない。それなりに刺激的な生活ではあったけど。
以前も述べたが、その後、転職し、現在は一般企業に勤務している。
あの夢を語っていた中学時代から35年を経ての今。
描いていたものと同じ風景をみているのか。何か違う。
記者時代もそうだったと思うけど、何か満たされていない。
Something is missing…(何かが欠けている)という感覚。
完成すべきパズルのピースが埋まっていない。
そのピースは何なのか?
何かを世の中に残したい、という願望に対する答えだ。
今はぬるま湯に浸かった状態で、本も書いていない、曲も書いていない。ビジネスをしているわけでもない。
現状に甘んじ、ただ時が過ぎるのを見過ごしている。35年前の自分はここにはいない。
このモヤモヤは何もしていないことの焦りではないか。鬱積した感情を解消しなければ、おそらく残りのピースは埋まらないだろう。
それでも、3月からnoteを始めたおかげで、自分の感情を文字に残している。
本の執筆や曲作りだって、不可能なことではない。
仮にどれも実現しないとしても、何かに取り組み、毎日を懸命に生きれば、描いていた絵と違っても、パズルは完成するかもしれない。
数日前の記事にも書いたが、その人の価値って、どれだけ人にインスピレーションを与えられるかどうかなのではないか。
“死ぬ直前までその人の人生の意味がどうであったかなんてわからない”――80をとうに過ぎた母の口癖だ。
最後のピースを埋めるために、少しずつ手や頭を動かしていこう、そう思う今日この頃だ。
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