人の本質を見極めるって難しい
あの人は「ダイヤの原石だ」とか「磨いたら宝石になった」というのはよく聞くたとえ話だ。一見地味に見えても(外見もしかりだが)、その人の人間性、素質は、磨くことで輝きが放たれる。
ダイヤの原石ということは、すでに本質も備わっているということだが、その本質自体も、磨き方によっては発揮されないだろう。
外見だけでいうと、モデル志望の女の子が表参道を何回も何回も行き来し、最初は誰も見向きもしなかったが、やがてみられているという意識が芽生え、何らかのオーラを発しはじめ、そこから皆が振り返るようになる、という話をどこかの記事で読んだ気がする。
人の人間性や本質については、そう簡単には変えられない。それでも、自身を俯瞰することができ、全体に求められているものは何かを考え、自己研鑽する人は、ダイヤモンドの如く光を放つ可能性を秘めているだろう。
一方、「ダイヤモンド→原石」といった逆パターンも残念ながらある。一見ダイヤモンドのように光輝いているが、磨いたら人工的に輝くジルコニアに過ぎなかったという例。その場合はしばらくすると曇ってくすんでしまう。
最初は、見た目の良さや社会的なスペックの高さで、魅了されるが、知れば知るほど、あまり何も考えていない浅い人、全体的に視野の狭い人だったということに気がつく。
人を判断するというのは恐れ多いことではある、なぜなら自分自身完璧な人間でないし、その判断は自分の基準でしかないからだ。
ただ、会社の組織においても、プライベートな人間関係においても、つくづく人を見る目、審美眼というのは必要だな、と感じることは多い。
いわゆる目利き力を磨くために、日頃から本物をたくさん見る事が大切と言われているけれど、ワインや絵画、音楽、ファッションならともかく、出会う人は玉石混交で、「本物だけに会いたい」というわけにはいかない。
しかも、自分自身も環境の変化によって、感情が移ろうこともあり、その感知センサーは正しく機能していないかもしれない。
人の本質を見極めるって本当に難しいと感じる今日この頃だ。
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