人生における「なぜ?」の先にあるもの
皆さん、新年はいかがお過ごしでしょうか。
私は年末に、人生は儚く、無常だと感じる出来事がありました。辛い永遠の別れです。
それでも、不思議ですよね、悲しいのに、noteを普通に続けている自分がいます。
いつものようにパソコンの前に座り、記事を読んだり、書いたりしている…。そんな日常に戻れる自分を、冷たい人間なのではないかと思う瞬間もあります。
でも、今生きているんだと感じられる場所がnoteなので、ここにいます。
それでも、神様に問いかけずにはいられませんでした。「なぜなの?」と。
人生の不条理に対し、やるせない気持ちで一杯になりました。
そんな時、アメリカの人気ドラマ『デスパレートな妻たち(Desperate Housewives)』の一場面を思い出しました。ネタバレになってしまうので、詳細は控えますが、シーズン7で主人公のスーザンが腎臓移植を受けるエピソードがあります。ドナーが見つかり、彼女は命を救われますが、同時に複雑な感情に襲われます。
彼女は「なぜ私は腎臓をもらって助かり、他の良い人たちが亡くなるの?理解できない(Why did I get a kidney while good people died? It doesn’t make any sense.)」とご近所の高齢男性に涙ながらに問いかけます。
その老人は、自身が朝鮮戦争に従軍し、九死に一生を得た話をします。彼は、人生において「なぜ?」という問いに対し、きちんとした回答はなく、ただ人生をそのまま受け入れるしかないと、スーザンを諭すのです。
スーザンはさらに問います。「自分の幸運が尽きたら、何が起きるの?(But what happens when my luck runs out?)」と。
でも途中で気づきます。
「なぜ聞くの?(Why ask?)」 ――そう、聞いたところで答えは出ないのです。
“Why ask?”—このシンプルな答えが、私の心にも響きました。
永遠にわからないことへの答えを追求せず、今この瞬間を生きていくしかない、というのが答えなのかもしれません。
もちろん、私の中では、そんな簡単には割り切れず、「なぜ?(Why?)」「なぜ聞くの?(Why ask?)」の問いはしばらく続くでしょう。でも、今日という日を大切にしながら、前に進まなければ…
新年から少し重い話になってしまいましたが、これからは毎日を力強く生きていきたい…そう決意しています。
noterの皆さん、今年もどうぞよろしくお願いいたします!