出会いと別れ 愛国者学園物語 第199話
そんなある日。美鈴のもとに意外な人物がやって来た。欧米の文化に詳しい作家・
田端彩子(たばた・あやこ)
である。彼女はキリスト教徒であるからか、キリスト教神学の深い知識を持ち、それを深めるためにドイツの大学に留学していたこともあった。加えて、ラテン語、英語、フランス語、ドイツ語に堪能(たんのう)という才女である。
また彼女は「活火山」と言われるほど短気であり、それをあるテレビ局関係者が面白がって、コメンテーターに採用したところ、巧みなコメント、意義深い意見を素早く繰り出すので、今はテレビでも重宝されていた。短気だから、討論番組では相手をやっつけるか、言い争いになることもあり、それが視聴率を持ち上げていた。美鈴はたまたま彼女の討論番組を見たことがあって、感心するような、呆れるような感じを覚えた。
そんな彼女が自分に会いたいと言ってきたのだ
。美鈴は、期待に少しの不安を混ぜたカクテルを飲んだような気持ちで、彼女を待った。
待ち合わせの場所にやって来た彼女は、金髪のかつらが歩いているような感じだった。金色に染めた髪は今の時代そんなに珍しくはないが、彼女はそれを10代の半ばから30年以上も続けているのだった。そんな彼女を見て、日本人至上主義者たちは、彼女を日本人らしくない、大和撫子(やまとなでしこ)ではない、などと非難した。ある評論家は彼女のことを白人におもねっている、日本人ではないと言った。だが、彼女はただ金色が好きだから髪を染めたのと言い、馬鹿げた非難を無視した。田端彩子とはそういう人間だった。
そんな有名人が自分に会いにやって来た。こちらは有名でもなんでもない人間、国際ニュース配信会社の一社員なのだが。美鈴たちは通り一遍の挨拶を交わした後で、世間話に少し時間を費やした。美鈴が予想していたとおり、田端は話題が豊富で話していて楽しかった。笑い声と共に時間が過ぎた後、田端は本題を切り出した。
「三橋さん、西田という男をご存知よね?」
美鈴の反応を見た田端の顔に暗い影がさしたことで、美鈴の恐怖感は一気に高まった。そして、田端が自分に会いに来た意味を知り、美鈴は悲しみに沈んだのであった。
それからしばらくして。
「少し早いけど、いいかしら?」
浅草橋の
やきとん屋
の店員は、どこかで見たような美人が、店先でそう言うのを聞いた。開店の少し前であったが、彼はその客を店に迎え入れた。そして、彼女がずっと悲しそうな顔をしているのを心に留めながら、店の仕事に勤しんだ(いそしんだ)。やきとんを運んでから、ふと見ると、彼女は涙をこぼしながらそれを食べているではないか。彼は心配になったが、その理由を聞くわけにはいかない。
美鈴は帰宅してから、とっておきのテキーラをあおって気分を変えようとした。単に辛いことなら、夫に話してもいいのだが、今日の出来事は美鈴にはショックであった。
あの西田が死んだ……。
彼は田端の知人だった。20年以上は会っていなかったそうだが、それでも知り合いだった。西田の死後、彼の家族は残された手紙をいくつか見つけた。その中に田端にあてたものがあり、田端はそれで西田と三橋美鈴とのつながりを知ったというわけだ。西田はその手紙に、美鈴のことを「共に勉強した仲間」であり、もし可能なら、美鈴の友達になってやって欲しいと書いていた。
西田は美鈴への手紙も書いていた。彼は手紙に美鈴への感謝を連ね、自分が彼女に会った理由を記していた。それは、ホライズンにはクレドと呼ばれる行動規範があるが、その一つが「無名人への視点」だったからだ、と白状していた。これは、ホライズンがマスコミだからといって、有名人だけ取材するのではなく、無名人にも目を向けよ、ということを意味する。こういう規範があるから、ホライズンの一員である三橋美鈴は、ただのブロガーである自分のことを馬鹿にはしないだろう、そう思ったからだそうだ。
確かに、この仕事をしていると有名人に会う機会があるし、ジャーナリズムを有名人の話を聞く仕事だと思っている人も少なくない。だが、それを戒める(いましめる)のが「無名人への視点」だった。美鈴は西田のブログに関心を持ったから、彼に会ったのだが、西田はクレドのことを考えていたとは、気がつかなかった。
美鈴はその晩、なかなか寝付けなかった。
それからしばらくして、美鈴は西田の
墓参り
に行った。自分は宗教を信じていないが、お世話になった人の墓に手を合わせて祈るぐらいのことはしたい。そういう気持ちだった。スカイブルーが美しいある日の午後、それは美鈴の心を穏やかなものにした。だから、一人になってしまったという孤独は、この午後は自分の心を傷つけなかった。
西田の死は残念だった。愛国者学園だけでなく、今の日本を支える保守思想・日本人至上主義について、美鈴たちは意見を交換したけれども、あのような機会は、美鈴にとってそう簡単には手に入らないものであった。録音してあるから、何度でも聞き返せるが、共に勉強した相手が亡くなるというのは、悲しいとしか言いようがない。あの会合を重ねるにつれ、彼の体調が優れないような印象を受けた。まさか、あれが原因なのだろうか。
それだけじゃない。自分は西田に、ホライズンで働かないかと持ちかけた。あの7回目、最後の会合で。あれは本心から言ったのだが、体を壊していたに違いない彼に対して失礼だったんじゃないかしら? 私は余計なことを言ってしまったんじゃ……。そして、その疑念は、ある恐怖を蘇らせた(よみがえらせた)。
美鈴には、
孤独恐怖症
とでも言える悩みがある。それは小学1年生の時に交通事故で両親と叔父を亡くしたことがきっかけだった。また、中学生のころ、唯一の親友とささいなことで大喧嘩をして、彼女との付き合いがなくなってしまったことも、それに拍車をかけた。一人になるのが怖い、孤独が怖い。いつか自分はひとりぼっちになってしまうのかもしれない……。その恐怖はやがて無視出来ないほど大きくなり、美鈴を支配するようになった。だから彼女は多少嫌なことがあっても人付き合いをし、偽りであっても友情らしきものを維持して来たのだ。
美鈴は両親を失い、親友を失い、大学生のときには交際相手に加えて、お腹の中の赤ちゃんまで失った。だから、そのうちに桃子までいなくなるんじゃ……。桃子は自分より年上なのだから、いずれは死ぬだろう。だが、それよりも前にいなくなってしまうんじゃないか。そういう思いが美鈴の心から消えることはなかった。ネット上には私のプライバシーに関する情報が流れている。西田さんが教えてくれたけど、それをもとに、誰かが自分たちの命を奪いに来るのでは? そして、また私は一人になってしまう。いっそのこと、ホライズンなんか辞めて静かに暮らそうか。そうすれば、私は安全かも。結婚したんだから専業主婦になってもいい。子供を産めばいいのだ……。
だが、ホライズンの仕事は魅力的だった。時にしんどいこともあるが、給料は良いし、職場にも活気がある。世界の出来事や意見を報道し、民主主義を擁護(ようご)するという、ホライズンの究極の目的も理解出来た。だから、それを手放すのは惜しい。それで結婚しても、しばらくは仕事を続けることにしたのだ。夫の両親、特に義母はそれをよくは思っていないが……。
美鈴は自分の心に開いた穴をのぞきこんだ。私は「また」一人ぼっちになるのだろうか。もしそうなら、次にいなくなるのは誰か。アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を思い出した。あれとは関係ある? ない?
心の穴は埋まらなかった。
続く
これは小説です。