「春琴抄」から考える恋愛
谷崎潤一郎の小説、「春琴抄」を読了。
春とヒコーキという芸人のぐんぴぃさんがおすすめしていたのと、「痴人の愛」が好きで国語教師になった友人へのお祝いとしてあげたこともあったので(題名からか、若干引かれた)読んでみた。
ちょいネタバレあり注意⚠️
簡単なあらすじは
盲目の三味線奏者・春琴に丁稚の佐助が献身的に仕えていく物語。
女性が男性のことを献身的に支えるのが、よくある恋愛。
ところがこの物語は正反対。それなのに男性が最後まで女性に仕える姿はなんだかしっくりくるから自分でも驚く。
幼少期に盲目となった春琴の目となり、少年時代からそばに居続けた佐助。
春琴は幼い頃から可愛く周りからも人一倍可愛がられて育ってきたので、お嬢様のような我儘要素のある子。それに加えて盲目になってから、捻くれさが増して我儘も増す。
そんな彼女に佐助が惚れたのは至極当然。
だって、無難な男より、自己中心的な我儘男に振り回されるけど、かっこいい男に惹かれてしまう女の話はよく聞くもの。
今出した例えは女→男に仕えるケースでこちらの方が現実でもよく聞く。おそらく人が成長する中で根底に男尊女卑の価値観が植えられている現代が要因にあると思う。
しかし、丁稚として生まれた佐助にとって出会った頃から春琴は上に立つ存在である認識が根底にあったことで、このような主従関係が結ばれていくのは無理もない。
それに、本を読むと言葉から伝わってくるのだが、春琴は相当可愛いので、そばに居続けていたらそりゃあ、好きになるよ。
そしてどんなに春琴から蔑まれ辛い目にあい、泣く日々が続こうが共に居続ける佐助は、それさえも快感を覚えてしまっている。
男女関係なく、生まれた環境や育った環境、幼少期に出会う人々といった成長の中でその人の性癖であったり性指向であったりも個々に形成されていくのだなと考えさせられた。
その中で「恋愛とは」を考えさせられたのが、春琴と佐助は結婚という形で結ばれることは最後までないのだが、佐助の愛は死ぬまで続くというところ。
人の恋愛って大体結婚という形をとるか、失恋という形をとって終わりを告げる。
結婚という契りを交わさず、死を持って終わりを遂げることは珍しい。
佐助の愛は春琴という人間であったからこそだと感じる。
2人の間には子供も数人できた。
しかし春琴はこんな男との子ではない!育てる気もない!と、全員を里子に出してしまう。
そして、体の関係はあったにも関わらず、恋人とも言わないどころか佐助を蔑むような発言をする。
にも関わらず、佐助を常にそばに置いて暮らす。
このような、最後まで結婚もしなければ付き合いもしない。手に入りそうで入らない女性だからこそ、佐助の恋は終わらなかったのではないか。
もし春琴が佐助を簡単に受け入れて必要とし、お付き合いし、子供ができたら育てるという選択肢を取っていた場合、小説のような結末は迎えていないだろう。
春琴も、自分を手に入れてしまってはこの主従関係が壊れてしまうことを分かっていたのではないか。もし産まれてきた子供を育てることになれば、春琴は盲目だから勿論、佐助のサポートが必要。また事実上ふたりは夫婦と呼ばれることになる。そうなれば春琴と佐助2人だけの主従関係ではいられない。
こうして、2人の恋愛は始まっていないようで始まっており、終わっていそうで終わらない、不思議な糸で結ばれた関係でいられたのだろう。
遠藤周作の「愛情セミナー」という本の中にこの言葉がある。
「不安は情熱を燃えあがらせ、安定は情熱を殺す」
この言葉が、「春琴抄」を読んでしっくりきた。
春琴の佐助に対する愛が全くわからない不安状態で、恋愛面で言うと安定していることがなかった。だからこそ愛という情熱は殺されることなく死ぬまで燃え続けたのだろう。
佐助の春琴への従順具合には時折、まじかよ。と思う部分もある。(特に後半の痛々しいところ。気になる方はぜひ。)
でもこれこそが、性やら外見やら全ての恋愛につながる条件を超越した愛なのかもしれない。
そう思ったのでした。
恋愛って、簡単に行きすぎてもダメなのかもね。
そして愛し方、愛され方は人それぞれ。
「恋愛」に特定の在り方はない!と思える一例を覗き見した気分にもなる、面白い一冊なので、ぜひ読んでいただければと思います。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
jeni