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元保健室登校が障害児の母としてなんとかやってる話

先生に捧ぐ。

メンヘラをこじらせていた高校二年生の春。
担任になったのは、初めてクラスを持った若い体育の男性教師だった。背が高くて細マッチョ。Theサッカー部って感じの爽やかな先生だった。

そんな素敵な担任がいる教室に、私が行くことはほとんどなかった。私は華の高校生活のほとんどを、保健室で過ごしていた。もちろん、メンヘラ渦中の高校二年生のあの時も、私は保健室にいたのだ。

『教室に行きなさい。』
『無理。』

これは養護教諭とのお決まりの挨拶。
その頃の私と言えば『無理』『ウザ』『あっそ』その3単語でほぼ会話が成立する(正確には会話として成立はしていないが)日々だった。

朝一の忙しい時間、カタカタとキーボードを鳴らす先生と、我が家のように長椅子にカバンを投げ、机に突っ伏す私。お決まりの光景だ。

キィっと椅子を動かす音がする。

『で?あなた、その制服の血は、何?』
『わかるれしょ。』
『あなたまた飲んだの?どのくらい?これは縫った方が良いかもよ』

朝にそぐわない物騒な話を淡々とする。
毎日毎日増える傷を消毒するイタチごっこも、何の薬をどのくらい飲んだのかを聞くのも、日課なのだ。

そして朝のチャイムが鳴る5分前。

長身爽やかな担任がグランドから走って保健室の窓を叩く。

『おーい、いるかー?いるなぁ。ほら、教室いくぞー。』

今思えば、朝練終わりに必ず寄ってくれてとてもありがたかったし、見捨てないでいてくれたことに感謝しかないのだが、、、

『ウザっ』

当時の私はそっぽを向いて無視を決め込んだ。
恥ずかしさと、ほんの少しの嬉しさと、無駄にメンヘラなプライドが私を黙らせた。いろいろな気持ちを言葉にできなかったし、うまく吸収、表現できなかった。

The思春期。

長身爽やかは困った顔をしながらも教室へ急ぐ。

そして日課を終えた私は“私の”ベッドへダイブするのだ。追加のODで次に目が覚めるのは三時頃。

『あなたお昼は?』
『無理』

そういうと、いつも紅茶を淹れてくれて、たまに先生のお菓子を分けてくれた。秘密の優雅なティータイム。

そしてグジグジメソメソと過ごして夕方。
部活を終えた頃に何食わぬ顔で家に帰るのだ。
親は保健室登校を知らない。と思っていた。
(ある日の帰りに出口で目を真っ赤にした親とすれ違った。親は目を合わせないようにして校舎へ入っていった。担任との二者面談だったらしい。)
お互いに『部活があるふり』をしていたのだった。

こんな生活を3年続けた。中学もこんな感じだったけれど。
最低限の出席(正確には足りていなかったとかいたとかなんとか)と、ほぼ答えのようなプリント授業を保健室でしてくれての追々々試を受けて、なんとか卒業した。後で聞いた話によれば、長身爽やかが『そこをなんとか』と各教科の先生に頭を下げてまわってくれてなんとかなったのだと、養護教諭から聞いた。

それから私はメンヘラをこじりこじらせながらも、新しい環境に飛び込み、なんとなくで福祉の道へ進んだ。血を滴らせながら飲みながら保健室に行きながらも、なんとなくそこも卒業して、社会人になった。けれど、そう簡単に変われるわけもなく、だんだんと酷く傷つけるようになり、飲み過ぎて救急車で運ばれたり飲んで運転して事故にあったりした。

何度か未遂をやらかして、何度か職場を変え、今の旦那に出会ったのだ。そこからはあまり覚えていないのだが、気が付いたら結婚していて、子供も流産しながらもなんとか2人産むことになり、日々の忙しさで自分を傷つける余裕はすっかりなくなっていた。


ただ、2人目に生まれた子には、重い病気と障害があった。

本来なら自分を責めてメンヘラ再発しそうな話だが、なんと私は生き生きしてしまったのだ。

子供の介護をするために、初めて長く続いた仕事、それも旦那と出会った想い出の職場を退職することにした。初めて、円満に退職したのだ。それも『しかたなく』だ。

そんな自分がなんだか誇らしく、それから『私がこの子を育てるんだ!』と自信を持って自分史上最も生き生きした時間を過ごしているのは、ここ最近、やっと三十路になってからの話だ。

そんな今、桜が散る中で出すのは、長身爽やかの先生や養護教諭と過ごした優しい時間、ちょっと変わった素敵な高校生活のこと。だいぶ美化されているけれど、人生の中で1番自分が苦しくもがいていて、今思えばたくさんの人に手を差し伸べてもらっていた、素敵な時間。

『先生、私、こんな大人になったよ!』

メンヘラ保健室登校だった私が、今ならあの時の話を笑ってできるくらいに成長したことを、ここに報告する!

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