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財宝は眠る 〜映画の中の宝石・装身具〜


『グーニーズ』という映画が好きだった。
『ネバーエンディングストーリー』と同じく、日曜洋画劇場を録画したVHSを弟や友人たちと繰り返し観て、冒険ごっこに没頭していた。
この二つの作品のおかげで、まだ小さな私でも、映画の面白さが分かり始めていたように思う。


『グーニーズ』

1985年 アメリカ
リチャード・ドナー監督
(あれっ、スピルバーグ監督作品じゃなかったの?と思ったら、彼は製作総指揮としてクレジットされていた)


伝説の海賊船に眠る財宝を求めて、子どもたちとギャング一家が争奪戦を繰り広げる物語。

映画のクライマックス、地下洞窟の海賊船での冒険を終え、地上へ戻ることができた主人公たち。
ビー玉の袋に偶然残っていたのは…
なんと、飴玉のような大粒の宝石たち!
画面の前にいる私も、ひと目で釘付けになったシーンだった。お祭りの夜店で買ったどんぐり飴を握りしめ、映画の真似をしたものだ。

今なら手持ちのルースで同じ遊びができるのになぁ



映画や物語に登場する金銀財宝、それは日常には決して現れることのない、知らない世界の品物だった。

大人になった今は、とんでもなく大粒の宝石や歴史的価値のある逸品に、実際に触れることができる。
たとえ自分の持ち物ではなくても冒険に出かけなくても、博物館へ足を運んだり仕事でジュエリーを作ったりできるから!
そういった意味で、私の子どもの頃の夢は叶っている。


『死』の におい

しかし、子どもの私にとって、宝石とは常に「死のにおい」がするものでもあった。

単にキラキラして綺麗!というだけなら、ビーズやスパンコールやラメ入りの小物でじゅうぶんだった。
でも金銀財宝や宝石というものは、いつも海賊や鬼など悪役があちこちから奪い去りそこには血が流れ、普段は見つからないようアジトや地下に隠される。
陽の光の下で輝くことは、滅多にないものだった。

標本箱のアメシストの結晶になら、自然が生んだアート、「なんて綺麗!」と素直な感動があるのに、どういうわけか同じ宝石でも大きな隔たりがある。


冒険ごっこを卒業するほどに成長しても、相変わらず原石や結晶は好きだったが、装飾品の宝石=ファッションやおしゃれで身につけるもの、と結びつくことはなかった。
宝石とは非日常で重いもの、簡単ではないもの、どこか暗さのあるもの、だった。


学生の頃に古い美術品やカタコンベ(納骨堂)のことを調べ、こんな本を読んだりもしていた。

17世紀のヨーロッパ、死というものが今よりも身近だった時代、身分の高い人々は故人の遺骸を美しく装飾していたという。
当時は、メメント・モリ(死を忘れるな、死は常に隣にある、など)の考え方が一般的だった。
それは「死」を考えると同時に「生」を大切に思うという観念だ。


言葉の上ではなるほどと思えるのだが、遺骸の扱い方については、現代日本に生きる私から見ればあまりにもかけ離れた感覚だ。


形や輝きをほとんど変えず、人の一生よりも遥かに長くこの世に残る。

その特性は宝石の魅力だし、骸骨との相性も抜群だけれど…。
時間の流れや自分の残された人生に思いを馳せるとき、朽ち果てていく私とは裏腹にそこに残り続ける宝石の存在が、ふいに怖ろしくも感じる。

大人になった今でも、やっぱり、金銀財宝の宝石からは「死のにおい」がするのだ。



※この記事は過去にShort Noteにて公開したものに加筆修正したものです。


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