トパーズをトパアズと呼びたい、そんな夜に。
秋の夜長をどっぷり読書にはまって過ごした学生時代、時間を気にせず本を読み漁っていたあの頃が、だんだん遠ざかっていく。
私は読書量こそ少なくなかったが、文学少女と自称できる程でもなく、ジャンルを絞り込まずに広く浅く読んでいた。
今更ではあるが、若いときにもっと正統派の文学を読んでおけばよかったかな、とも思う。
文学でしか知り得ない日本語を、知らないよりは知っているほうが良い。
しかし、いつでも読めると思っていると、あっという間に若さは失われ、なかなかその機会は訪れない。
過ぎ去った時間は取り返せないのだ。
さて、長年に渡って読み集めてきたさまざまな文章は、無意識の底に降り積もり、普段はその存在すら忘れている。が、ふと何かのきっかけで、印象的な一節が浮かび上がることがある。
たとえば、炭酸にレモンを絞るため、果実を手に取ろうとしたその瞬間。
すっきり冴え渡るレモンの香気。
ああ、かの有名な、高村光太郎だ。
『智恵子抄』の「レモン哀歌」の一節だ。
有機物であるレモンは、みずみずしく明るい黄色をしていて、まるで生命力の象徴のようだ。
死の床で智恵子が噛んだ果実から、トパアズの色の果汁がほとばしり、冴え冴えとした香気を放ち、彼女の意識も一瞬にして冴え渡ったようだ。
生命が尽きる間際の、最期のきらめきを感じさせる。
果汁は無機物であるはずのトパアズ(トパーズ)の色に喩えられているが、冷たい死んだ石として表現されたのではない。
みずみずしいその瞬間を永遠のものに変えた結晶、
トパーズの透明感は二人の透き通った心そのもの、
そのように私は感じる。
愛する人の生命が尽きようとしているとき、はたして、私たちはこんなにもみずみずしく毒されずにいられるだろうか。
智恵子抄の美しさとは、文学の中だからこそ表現できる美しさのような気がする。
レモン色の宝石としては、他にも、シトリン(黃水晶)や薄い色味の琥珀などが身近でよく知られているだろう。
しかし、宝石としても格の高いトパーズに喩えることによって、硬質で気高い印象となっている。
それは、二人の愛の形を表すのにぴったりの選択ではないだろうか。
トパーズは世界各地で古代から尊重されてきた宝石で、硬度8で傷つきにくく、光沢があり輝きは強く、何よりも透明度の高さが魅力だ。
その反面、弱点というか、石としての特性として劈開(へきかい・Cleavage)がある。ある決まった方向にだけ、驚くほどスパッと割れやすいのだ。
固く結ばれた愛であっても、輝きはそのまま、死によって結晶は真っ二つに…。
作者はきっと、そこまで意図したわけではないだろう。それでも私は、このようにこじつけたくなってしまう。
宝石とは人の身を飾るだけではなくて、文学の中においても、差し色のようにその世界を彩る役目を果たしている。
トパアズという文字列を目で追うたびに、声に出して読むたびに、私たちの脳裏にはレモン色の硬質な輝きが浮かび上がっているのだ。
引用元 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html
※このnoteは過去にShort Noteにて公開したものに加筆修正したものです。
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