コトを言葉にするのが下手ではなく、言葉にするコトが複雑になっている
タイトルのような言葉を目にした。同感した。
ちょうどアドベントカレンダーの季節。普段アウトプットしない人も、かわるがわる書き留めた言葉をリリースしている。個々のそれが瞬間的な話だとしても、読む側は毎日がたのしい。
そんななか、書くことが苦手な人も多い。何を書けばいいのやら。うまくまとまらない。これでいいのか。いまいち自信が持てない。
それでも、苦手さえ取り除いてしまえば、きっと書くことはたのしい。書くことはよろこび。人によって、書くことが生きることと思う人もいるかもしれない。たとえ身内ノリ、と言われても悪くは思わない。書いた事実は何よりも尊い。得るものも多い。
そんなアウトプットの必要と、難しさの背後に思ったことがある。
しんどさを集めてたら、たのしさも、よろこびも離れていった
義務でもないのに、連日のように追われる感覚になる。仕事人にこんな話するとかえって怒られるかもしれない。
言葉にするしんどさは時間だけではないはず。整えまくれば味がない。見返せば気になる。書いては消して、こねたらまた整わない。表現を探る、こんなトーンでいいものか。誰に見られようか。言い切ってもいいものか。で、何が言いたかったのか。
思ってるより、“それが”書けないのではなく、“自分が”書けないだけだったりする。
Hello world!
は書けるはず。単純なメッセージで、あなたがセカイにこんにちはしている。どのセカイに言ってるのか知らんけど、良い言葉だと思う。
ここで「書いたー!」という瞬間だけ抽出できたなら、どんなに気持ちいいものか。そうなる前に、自ずから、しんどさばかり集めてしまう。考えあぐねるほどに、たのしさも、よろこびも、離れていってしまう。でもどこかでまた、離れたそれを手繰り寄せたいと願っている。
誰もが持っている原動力を大切に
普段のたのしい会話を思い浮かべてみよう。そのまま文字に起こせば、ヒッチャカメッチャカなんだろう。
そこには正しさを考える前の、言葉のクセがある。それは味のように感じる。味はラーメン屋のように店ごとに違う。違いを味わえる。「書けない!」と思う人の味もある。よほどの意味を取り違える話でなければ、ヒッチャカメッチャカの、そのままがいい。もちろん倫理観は必要だけど。
書き出すことで発散できる。ときおり煮詰まった思考を、裏紙やノートの片隅に思いのまま書きなぐる。
個人的に、書きなぐったメモを見るのが好きだ。そこには、しんどさを突き抜けたリアリティが宿っている。ここ数日はそんな、日常会話だとか書きなぐるような原動力をうまく昇華できたらいいな、と思いながらカレンダーを見ている。
ますますセカイは捉えづらい
言葉は世界を捉える記号。メディアの記者と凡人のセカイが違うのは当然で。それはおろか、万人がスマホを持った情報過多の日常は、誰ひとり同じセカイと対面していない。少しずつ違うはず。正しく整然とした言葉だけで暮らせ、というほうが無理がある。
職業柄、理詰めな文章を書く機会が多かった。企業紹介など、それはそれで重宝されたけど、リアリティと離れていく感覚もあった。もっと泥臭い。もっと熱量がある。もちろんTPOに則して用意する必要がある。
個人のヒッチャカメッチャカと、企業の愛憎渦巻くリアルを前にして思う。ココは書きづらい。書くことは捉えること。捉えづらいセカイが無数にある世界だ。きっと、あなただけの感覚ではない。
文才のない世界の私と、コトを捉えてきたセカイのワタシ
私には文才がない。そう卑下する人も多い。スキルで言えばそうかもしれない。世界にはセカイが無数にあって、どのセカイで非難されるとも知れない。捉えづらくて、書きづらい。
けど、私は、ワタシなりのセカイとの向き合いかたを知っている。そこに書きたいワタシのセカイのコトがある。嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも、対象となるコトはワタシのセカイとともにある。そう考えてみれば、書くコトは既に捉えている・捉えてかけているかもしれない。複雑に思う気持ちは、どこか別のセカイのコトからきてるのかもね。
他人の僕からワタシをみてみる。アウトプット自体が書き手にとって大きなものだと感じる。アウトプットなくして、肯定も批評もない何もない。言葉でアウトプットすることは大事。あえて聞き飽きた言葉をまた自分に投げかける。そしてコトを書く。
書き手の頭にあるコトを外在化して、自分の外側のそれを見る。反芻したり、反証したり、と自ら捉えかたをコントロールすることもできる。赤ちゃんを見ていると、親の言葉を繰り返して、セカイを、コトを捉えてきたんだと感じる。
ワタシのコトを教えてほしい
美辞麗句ばかり並べても何にもならないけどね。書くことは正義だ。書くことそのものに、正解も不正解もないと思う。意図や思惑よりも先に、その生々しく抱えたコトを表現してほしい。表現のしづらい、息苦しいセカイは誰も求めていない。
コトを言葉にするのが下手ではなく
言葉にするコトが複雑になっている
自信をもってほしいな。もしも複雑そうに見えても、私はワタシのセカイのコトを知っている。他人でも、いや他人だから知りたいな。どんな拙さも汚さも、意味の薄さも、矛盾でも、私たちと違うワタシだから、同感につながる。肯定する人がいる。共感よりも同感がしなやかなセカイをつなげる。そこに下手な「イイネ」や共感はいらないと思う。
複雑な世界で苦しんだら、ワタシのセカイが捉えるままでいいんです。拙いメッセージですが、どこかのセカイのワタシに向けて。