あれ?読めるけど、読めてないんじゃない?(機能的非識字と情報環境)
こんなツィートを目にした。文章は読めるけど、内容が理解できない、という人の話。
参照先のワイアードの記事は、昔うっすら読んだことがある。当時それほど気にならなかった話なのに、なんだか今とても気になった。
特に、このコメントが引っかかる。
“長期的展望を持たず、その場の体験と感覚を重視して、それさえも即座に忘却する”
占いのようなバーナム効果かもしれないけど、周りにもそう思うし、自分自身もそうなってるような気がする。忘れたことは覚えていない。この感覚が確かかどうか分からない。
僕らは読めているのか?読めていないのか?
機能的非識字者とは?
まず、機械的非識字とは何か?
文字自体を読むことは出来ても、文章の意味や内容が理解できない状態
ほかに
文章の要点を掴んだり、感動したりすることができない
などと書いてあった。未病(病名はないが具合の悪い状態)の定義のようで、意味は分かれど、いまいちしっくりこない。
モノゴトのいろんな側面、前提知識や文脈を知っているかどうかによって、理解の度合いも違ってくる。どの程度の理解があれば、読める、と言えるのか分からない。でも、とにかく文章に書かれた現実を理解できない、ということらしい。
いま現在の自分はどうか?分かるか分からないけど。なんとなく情報環境の変化を思い出しつつ、意識的なものから無意識的なものにかけて自問してたい。
仮説1:個人の経験則で選び取っていないか
文章を読み取るとき、自分の中にある経験則で理解している。元より、経験のない話ほど避けていないかと仮説する。フォローという行為はレコメンドより恣意的に選んでいる。また、タイムラインを手早く転がしながら、その指先を止めるタイミング。それはよほどインパクトがなければ、自分の経験から無意識に選んでいるような気がする。
きっと経験で選んだ現実には、自ら同感しても、相手には共感していない。さらに環境がエゴに拍車をかけて、その他を許容すまいと、現実を無意識に選んでいないか。
仮説2:個人の必要だけに囲まれていないか
普段たくさん文章を書いて、文字でやりとりをしていても、誰かにその意味や内容を十分理解できてるか、と言われると自信がない。当たり前だけど同じテキスト・記号でも、個人によって解釈が異なる。その程度はどんなものだろ。
情報環境が明らかに変わっている。誰もがスマホを手に、レコメンドエンジンによって都合良いニュースを摂取し、答えを探す手間は減った。探さなくても、必要なもののほうから飛び込んでくる。個人の求める以上を得るだけの必要がない。結果的に、解釈の違いが生じる。これが誰かの文章が表す現実を理解できない要因になっていないか。
仮説3:必要すら避けていないか
文脈が短くて、誰でも楽しめるSNSに利用が移っている。Snapchatは既読が消えて、距離感を気にすることなくガンガン流れる。TikTokは15秒のネタが、荒くカテゴライズされたタイムライン上で再生され続ける。Twitterもたいがいだけど、それ以上に速く、粘着度が低い。クソリプも批判も許さず、また、つながり具合に関係なく評価させあう。
快楽は自動的に与えられ、インスタントに消費できそうだ。現実の息苦しさ、退屈さ、窮屈さに、わざわざ目を向けなくていい。だけど、そんなコンテンツ(現実)ばかり摂取していて、オフラインの現実を避けるようになっていないか。そして、個人というものが希薄になっていないか。上のサービス利用に関わらず。
たぶん自分は読めていない
かたや、こう書いていても、自分が機能的非識字者なのかどうか分からない。前述した変化を思うほど、読めていないと感じる。大小あれ、環境の変化は「読めない」ことの要因になっている。
かたや、SNSの恩恵もあるんでしょうね。自分ごとと切り離して考えて、これまで知らなかったり目を向けなかった無数の現実が、より透明に、見えるようになっている。社会的マイノリティの存在が認知されたり、不公平な差別構造が明らかになったりしている。
たくさんの現実があるうち、どの現実と、どう向き合えばいいんだろう。無数の現実に対する無知や距離感を悲観的に捉えず、分からないことに興味をもつのが良いのかな?分からないので、分からない人と話したい。
自分が機能的非識字かどうかは結局わからないけど、たぶん読めていない現実がある。今読んでいる現実がどんな現実なのか、今後も反証する必要はありそうだ。そんなふうに思いました。
もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。