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山内容堂(やまうちようどう) 決断するか否か…「流れに身を置くのが一番か」

行動理論(※)-それは、人の行動を方向づけているその人なりの信念のこと。 我々は、仕事をしている中で、常に自分なりに行動を選択している。 その選択が、正しいこともあれば、失敗することもある。
歴史上の人物もまたしかり。
その時々の行動の選択で、歴史が大きく動いてきた。
何を考え、どう判断し、どのような行動を選択したのか。 戦国時代や幕末の偉人たちの行動理論をひも解いてみよう。

時流にのまれる賢侯・僥倖(ぎょうこう)による藩主の座

武と詩、両方の才に恵まれながらも、本来ならば歴史の表舞台に出ることなく、その一生を終えるはずだった。「鯨海酔侯」(げいかいすいこう)と称し、自身を「一編の詩の中の人物」と見立てた「異常児」山内豊信、号を容堂という。
容堂は、土佐藩12代藩主、山内豊資の弟豊著と側室平石氏の聞に生まれ、1500石取りの分家の家督を継いでいる。

「飼いごろしの身」である彼は、武に向く体躯を持っていた。身の丈五尺六寸、大柄ながら敏捷な動きを可能にする強靭な腰を持ち、「居合いで飯が食える」とその師に言わしめたほどである。
領地も領民も、政に対する権限も、何一つ持たない彼は、君主として家中の信を得ることはない立場であった。
が、突如僥倖が訪れる。13代藩主、14代藩主が相次いで急死。順列として家督を継ぐはずの者はわずか3歳であったため、分家ではあるが当時22歳の容堂に白羽の矢が立つ。格別の推挙と異例の沙汰により、嘉永元(1848)年、藩主に就任した彼は、そのときどのような想いであったのだろうか。

「身のうちにある火」が向かう先を見いだせないままでいた彼が、その「場」を与えられたのである。戸惑いつつも、身震いする衝動を持って受け入れたに違いない。

彼は「平時の格式」ではなく「戦国の風」にその身を置きたがった。そのため、不信感を持つ家老と相撲を取り、ことごとくを投げ飛ばすことで、肉体的畏怖感を与えるという行動にも出ている。
嘉永3年12月、従四位、土佐守に任じられるまでの問、彼はもっぱら学問をした。「庶民に生まれていれば、青史に残る学者になった」と評されるほど、天分があったようだ。

藩主

参政に起用した吉田東洋から彼は、韓非子こそ君主学であると学ぶ。韓非子の教えは「人は信頼すべからざるものである(観)。だから厳しい戒律を持って締め上げていく以外(因)、 人を統治するすべはない(果)。峻烈な法によって威服させよ(心得モデル)」というものである。

松平春獄、伊達宗城、島津斉彬とも交流を持ち、幕末の四賢侯と称された彼は、安政の大獄を経て謹慎の身となるが、そのさなかに土佐ではクーデターが起こる。郷土(長宗我部侍)による土佐勤王党が、吉田東洋と対立し、文久2(1862)年に 束洋を暗殺するのである。  

もともと容堂から見れば、郷土は敵である。関ヶ原の戦いによって衰微した長宗我部氏は、徳川に仇なすものである。
彼はこのクーデターにより、ますます韓非子の教えを「正しきもの」 とその信念を強めた。その結果、東洋を暗殺した土佐勤王党の大弾圧に乗り出したのである。
弾圧は、彼にとって正義であった。

維新の賢侯

中岡慎太郎や坂本龍馬の仲介によって、薩摩藩と土佐藩が会談し、幕府排除と王政復古のための薩土盟約が成立する。ここから土佐全体が徐々に倒幕路線に傾いていくことになる。
しかし、歴史主義者である彼の中には、「薩長は関ヶ原の敗北者であり、幕府に対する二百数十年の遺恨があるが、土佐藩は関ヶ原のおかげで興っており、徳川の恩は忘れることはできない」という想いがある。
つまり「徳川は恩人である。徳川の沙汰によって山内家は興っている。故に徳川を救わねばならない」というのが、彼自身の論理である。これが、彼を倒幕へと決断させなかった。

しかし、悲しいことに時代の大勢を読む力を併せ持っていた彼には、倒幕へと傾いた時代の勢いを止めることも、またできなかった。
その状況で、「大政を奉還する」という策は、まさに容堂にとっては妙案であった。これに彼はすがり、行動し、一時的には事が成ったかに見えたが、一度転がり出した時代の歯車は止まらなかった。エネルギーは消費されない限り消えることはない。
慶応4(1868)年、旧幕府側の発砲から戊辰戦争が始まる。容堂は土佐藩兵に対し、これには加わるなと厳命するも、板垣退助がこれを無視し、新政府軍に従軍する。
するとこれを聞いた容堂は、江戸攻めへ出発する土佐藩兵に、「天なお寒し。自愛せよ」の言葉を与えるのである。

鯨海酔候の行動理論

武と知の才を併せ持ち、戦国の詩篇の登場人物としての自らを描き、家中に対しては韓非子の行動理論であたる。徳川への感謝と時代の流れの間で東へ向かったり、西へ傾いた り、当時の志士から「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と言われた「鯨海酔侯」の複雑さはどこから生まれたのか。

彼自身、自分のことを韓非子的行動理論で見ていたのであろう。
つまり「我は己の足で立つ事ができない者である(観)。だから、我が意で物事を決めたところで(因)、時流を変えることなどできない(果)。だから、流れに身を置くのが一番(心得モデル)」というものである。

自らを描いた彼の詩がある。

壮士あにかくの如くあらんや
懦夫(だふ)のみこの病あり
医薬服すれどもきかず
欝積、もとよりわが性
日々唯、酒を飲む

壮士でありたいが、儒夫であることを知っているがために、腹立たしくも酒を飲むしかない、という意である。

時流に流される行動理論とは、決断することのできない行動理論である。

※資料「行動理論」とは

「行動理論」とは、私たち一人ひとりが、考えたり行動を選択したりする際の判断基準となる、その人なりのものの見方・考え方のことです。

例えば、このような故事成語があります。「君子危うきに近寄らず」。
一方で、このような故事成語があります。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」。

前者の考え方を自分の判断基準としていれば、できるだけ冒険やチャレンジはしないという行動を選択するかもしれません。後者の考え方を自分の判断基準としていれば、多くの局面で果敢に挑むという行動選択をするでしょう。
このように、考え方ひとつで、取る行動が変わります。

当然、行動の取り方で、成果が変わります。特に、ビジネスにおいては、成果を上げるための「成功確率の高い」行動理論を持っておくと、成果が上がりやすい行動パターンを確立することができたり、失敗が続いたときは、行動理論の改革を通じて、行動の修正ができたりします。

ジェックでは創業以来、人の行動や判断の基となっている「行動理論の改革」で行動変容を促進し、変革のご支援をしてきました。
行動理論の改革については、より詳細の資料は、以下の弊社株式会社ジェックHPに掲載しています。

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※この記事は弊社発行「行動人」掲載より抜粋加筆しました。

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