「小学生とLGBTの問題」
わたしの妻が学校の先生をしている。
小学生の教育指導をしているのである。
妻から食事の際に次のようなことを言われた。
「先日、学校で授業が終わり、質問や中学受験をする生徒の分からない問題を教える時間だったの。中学受験では、御三家と言って、筑駒・麻布・開成に合格する人が多い有名中学受験専門塾のAに通う生徒がいてね、この国語の記述式問題が分からないから教えてくださいというのね。優秀な生徒で彼でも分からない問題ってあるのか、と思ったぐらいにできる子なのよ。男の子で。それで、問題文を読むと「物語・小説文」でね、小学生の高学年か、中学生と思われる「主人公」と「登場人物」が出て来るの。「主人公」が相手に言うのね、次のような部分があるわ、<きれいな顔しているな、と覗き込むように彼の顔を見て、彼のことが大好きで、抱きしめたくなった>って。子供のLGBTのお話なのよ。ここまで、日本のLGBT問題が広がって来たのかと思ったわ。価値観が多様化していて、いろいろな価値観を個性として認めようということなのね。だけど、小学生にはまだ、こういう問題を考えるのは早いんじゃないかしらね。「恋」「愛」「恋愛」「失恋」「恋文」「片思い」とか「結婚」「離婚」「婚約」「浮気」とかまだまだ知らない年齢よね。あなたはどう思うの?」
と、妻に聞かれて、
「セクシャリティの問題は、非常にデリケートな問題だから、テスト問題にして、直接、小学生に気持ちを聞くというのは、乱暴だね。そこの塾の先生は、何を考えて、わざわざこういう問題を出し、問いを出したのだろうか?」
さらに、わたしは、
「そういうデリケートな問題に解答する義務はあるんだろうか?ここで、そういうLGBTも個性として認めなさい、とか、認めなくてはいけない何て言っていたらおかしいよ。性は自由であるということに反している。性の問題は教育ではないはずだ」
妻は同意するように、うなずいて、
「塾の先生と言っても、まだ若いでしょう。塾という集団のボスザルのような存在なのよ、他のサルはみんな、うっきき!っと言って、ボスザルの言うことを聞くのよ」
「サル並みって増えているんだなあ」
わたしは、もっともっと日本人が、批判的であって良いと思う。
なぜ?どうして?とい問いを常に持ってほしい。
何でも言われるがごとく、「ハイ」では、それこそサル並みだ!